ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

定住者と、落ちていく者と―『明暗』における小林登場の意味―んでるのは実際厭だよ」(三十六、115)「要するに僕なんぞは、生涯漂浪して歩く運命を有って生れて来た人間かも知れないよ。何うしても落ち付けないんだもの。たとひ自分が落ち付く気でも、世間が落ち付かせて呉れないから残酷だよ。駈落者になるより外に仕方がないぢやないか」「落付けないのは君ばかりぢやない。僕だつてちつとも落付いてゐられやしない」「勿体ない事をいふな。君の落ち付けないのは贅沢だからさ。僕のは死ぬ迄麺麭を追懸けて歩かなければならないんだから苦しいんだ。」「然し落ち付けないのは、現代人の一般の特色だからね。苦しいのは君ばかりぢやないよ」小林は津田の言葉から何等の慰藉を受ける気色もなかつた。(三十六、115)津田もまた、病気とお金に困っていて、しかも奥さんとの関係が安定的なわけではありません。しかも後半の展開によっては津田もまた、『それから』の代助のように実存的な不安の場に追い出されることもありえます。ここで津田の境遇を小林が「贅沢」といって取り合わないのは、それだけ小林の境遇が切実であることを示すものと見ていいでしょう。そしてそうした視線は津田が「土方や人足をてんから人間扱ひにしない積」(三十五、111)といった、判断があってのことであります。小林が探偵に監視されているといった自覚をしていることもこのことと関係があります。津田にとって小林は「無闇に上流社会の悪口をい」う人で、そのために「社会主義者に間違へられる」ので「少し用心」(三十五、110)すべき存在なのです。しかし小林は、自分のほうが「善良なる細民の同情者」であり、むしろ「乙に上品振って取り繕ってる君たちの方が余つ程の悪者」で、「どっちが警察に引っ張られて然るべきだか能く考えて」みるべき存在と考えています。津田は、ドストエフスキに言及しながら下層社会への思いを語る小林を泣かせるものがただ酒であるか、叔父であるかを疑い、(三十六、112)小林の涙をただ迷惑さうに眺めるような友人でしかありません。小林が貧乏で、「社会主義者」とみなされて警戒されうるという設定は、一九一六年の日本社会が誰を排除しつつあったかを垣間見せてくれています。それは、小林を冷ややかに眺める、日本を離れないで住む、「生涯漂浪して歩く運命を有って生まれて来た人間」ではない定住者たちであります。小林が、「たとひ自分が落ち付く気でも、世間が落ち付かせて呉れないから残酷」と訴えるのは、自分を追い出す社会構造を語っていて、そこでの「運命」とはあくまでも社会的な運命でしかありません。小林が何度も「軽蔑」される自分を意識し、口にするのはこうした関係を語っています。小林は確かに相手を不愉快にさせうる行動を取ったりしますが、津田をはじめとする定住者たちが小林を「軽蔑」するのは、社会的差別の現場でもあるはずです。二人の対話を見ましょう。「実を云ふと、僕は行きたくもないんだがなあ」「藤井の叔父が是非行けとでも云ふのかい」「なにさうでもないんだ」「ぢや止したら可いぢやないか」津田の言葉は誰にでも解り切つた理屈な丈に、同情に飢えてゐそうな相手の気分を残酷に射貫いたと一般であった。数歩の後、小林は突然津田の方を向いた。「津田君、僕は淋しいよ」津田は返事をしなかつた。(略)「僕矢つ張り行くよ。何うしても行つた方が可いんだからね」「ぢや行くさ」「うん、行くとも。斯んな所にゐて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行つた方がよっぽど増しだ」彼の語気は癇走つてゐた。津田は急に穏やかな調子を使ふ必要を感じた。(三十七、117-118)小林が「実を云ふと、僕は行きたくもない」(三十七、117)と話すのは、津田が察するとおりなんらかの同情を期待してのことであります。しかし津田はそれに答えていません。「淋しい」との小林の431