ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL言葉にも津田は「返事をしな」(三十七、117)いのです。結局小林に「斯んな所にゐて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行つた方がよっぽど増し」(同)と言わせ、小林の語気の変化を感じ取ってからも、止めるのではなく「何処へ行つたつて立派に成功出来る」(三十七、118)と話します。そこで、送別会を開くと話しますが「今度は小林の方が可い返事をしない」状況を作るのです。4.定住の条件小林は、なぜ奥さんがいないのかというお延の質問に次のように答えています。「貰ひたくつても貰へないんです」「何故」「来て呉れ手がなければ、自然貰へない訳ぢやありませんか」(八十二、274)「僕だつて朝鮮三界迄駈落のお供をして呉れるような、実のある女があれば、斯んな変な人間にならないで、済んだかも知れませんよ。実を云ふと、僕には細君ばかりぢやないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。つまり世の中がないんですね。もつと広く云えば人間がないんだとも云はれるでせうが」(八十二、275)こう話す小林をお延は「生まれて初めての人に会ったような気がした」と感じています。それだけ小林はこのお延にとって遠い場所にいる人物なのです。小林は妹を置いていく理由を、日本が「安全」で、「殺される危険が少ない」(八十二、276)からだとしています。小林が、そうした危険な場所に行くことになるのはなぜでしょうか。小林はお延との対話で清子のことを話しそうになっては、話題を変えて津田のことを話題にします。「奥さん津田君が変つた例証として、是非あなたに聴かせなければならない事があるんですが、余まりおびえてゐらつしやる様だから、それは後廻しにして、其反対の方、即ち津田君がちつとも変らない所を少し御参考迄にお話して置きますよ。是は厭でも私の方で是非奥さんに聴いて頂きたいのです。-何うです聴いて下さいますか。」お延は冷淡に「何うともあなたの御随意に」と答へた。小林は「有難い」と云つて笑った。「僕は昔から津田君に軽蔑されてゐました。今でも津田君に軽蔑されてゐます。先刻からいふ通り、津田君は大変変りましたよ。けれども津田君の僕に対する軽蔑丈は昔も今も同様なのです。毫も変らないのです。是丈はいくら怜悧な奥さんの感化力でも何うする訳にも行かないと見えますね。尤もあなた方から見たら、それが理の当然なんでせうけれどもね」(略)「いや別に変つて貰ひたいといふ意味ぢやありませんよ。其点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。実をいふと、僕は津田君にばかり軽蔑されてゐる人間ぢやないんです。誰にでも軽蔑されてゐる人間なんです。下らない女に迄軽蔑されてゐるんです。有体に云へば世の中全体が寄つてたかつて僕を軽蔑してゐるんです。」(八十五、284 - 285)そして、こうした言葉に対して「随分僻んでい」るとのお延の言葉を受けて次のように答えています。「えゝ僻んでるかも知れません。僻まうが僻むまいが、事実は事実ですからね。然しそりや何うでも可いんです。もともと無能に生れ付いたのが悪いんだから、いくら軽蔑されたつて仕方がありますまい。誰を恨む訳にも行かないのでせう。けれども世間からのべつにさう取り扱はれ付けて来た人間の心持を、あなたは御承知ですか」(八十五、286)しかし、お延はこうした小林に「丸つ切り同情の起り得ない相手の心持」で、「それが自分に何の関係があらう」(八十五、286)と思うだけです。「彼女は小林のために想像の翼さへ伸ばして遣る気にならなかつた」といった人物として描かれるのです。小林はここで、自分が「わざわざ人の厭がるやうな事を云つたり為たりするんです。左うでもしなければ苦しくつて堪らないんです。生きてゐられないのです。僕の存在を人に認めさせる事が出来ないんで432