ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

定住者と、落ちていく者と―『明暗』における小林登場の意味―す。僕は無能です。幾ら人に軽蔑されても存分讐討が出来ないんです。(略)」(八十五、286)5.恐怖・排除・不安小林が、人に嫌われるような言動をするのは、「存在を認め」てもらうためでした。そして、そのようになった理由は「無能」だからとしています。小林は「叔父の雑誌の編輯をしたり、校正をしたり、其間には自分の原稿を書いて、金を呉れさうな所へ方々持って廻つたりして、始終忙がしさうに見えた」(三十六、114)人物でした。おそらく編集・校正の仕事をアルバイトにしているもの書き、が小林の仕事でしょう。小林を待っている仕事も朝鮮の「或新聞社」(三十六、114)でした。冷ややかなお延に対して小林は話します。「けれども奥さんはたゞ僕を厭な奴だと思ふ丈で、何故僕がこんな厭な奴になつたのか、其原因を御承知ない。だから僕が一寸其所を説明して上げたのです。(略)」(八十五、287)小林は明らかに、津田やお延などの中産階級の人々による無視に抗議しています。それは、「無能に生まれ付いた」のが原因と言うのだから、「無能」といわれる(自覚される)人への社会的無関心に対する糾弾でもあるのでしょう。津田はお金や女性のことで家族や奥さんと葛藤しますが、それでも自分には「人間がいない」と叫ぶ小林にしてみれば、それこそ贅沢な悩みでしかないのでしょう。小林が朝鮮へ流れていくもうひとつの理由として潜在「社会主義者」的要素があります。彼は「探偵に踉つけられ」(八十一、270)ている人物です。彼は「探偵につけられるのが自慢らし」いが、「大方社会主義者として目指されてゐるのだらうという説明迄して聴かせた」(八十一、270)ほどの自覚も持っています。しかし、そうした話はお延にとっては「気の弱い女に衝撃を与えるような部分があった」ような話でしかありません。「怖怖ながら其所に釣り込まれて大切な時間を度外に置いた」とあるように、恐怖を与えられることでしかないのです。そうした恐怖に、数年までの大逆事件の記憶が生きていなかったとは限らないでしょう。言うまでもなく、大逆事件は「天皇」殺害の陰謀を企てたとして「社会主義者と名指された」人々を日本社会から消去することで排除した事件であります。つまり、『明暗』は、日本社会の中で分断され、排除されつつあった人々を小林と言う人物を登場させることで認識させ、しかもそうした人々に無関心で、冷淡な人々を描いている作品とも言えます。お延は小林にお金をあげようとする津田に不満を持ちますが、津田は「お延の貰つてきた小切手の中から、其幾分を割い毫毫毫て朝鮮行の贐として小林に贈る事にし」ます。(百五十二、537)不服なお延に、津田は、小林に同情すべきとしながら次のように話します。国が戦争している時でも中産階級は普通に暮らしていたことを『明暗』は覗かせてくれています。もちろん次の戦争では「国民総動員」時代になるのですから、そういう意味ではまだのどかな時代だったといえるでしょう。そうしたとき、日本の中ではそれまでに獲得した植民地へひっそりと移動していくことを余儀なくされた人々がいたのであり、そうした背景には経済の問題があったのです。そしてお延も津田も、そうした小林の悲痛な声に耳を傾けることはありません。お延にはこうした小林の告白は「一には理解が起こらな」いことで、「二には同情が出な」いことでしかありません。そして「彼の真面目さが疑がはれ」るのみで、「彼女を不安にする丈」だったのです。(八十六、288)「成程あいつは仕様のない奴さ。仕様のない奴には違ないけれども、彼奴が斯うなつた因りをよく考へて見ると、何でもないんだ。たゞ不平だからだ。ぢや何故不平だといふと、金が取れないからだ。所が彼奴は愚図でもなし、馬鹿でもなし、相当な頭を持つてるんだからね。不幸にして正則の教育を受けなかつたために、あゝなつたと思うと、そりや気の毒になるよ。つまり彼奴が悪いんぢやない境遇が悪いんだと考へさへすれば夫迄さ。要するに不幸な人なんだ」(百五十二、538)と。しかも、そのあと、このように付け加えます。「それにまだ斯ういふ事も考へなければならな433