ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALいよ。あゝ自暴糞になつてる人間に逆らふと何をするか解らないんだ。(略)だから今もしおれが彼奴の要求を跳ね付けるとすると、彼奴は怒るよ。たゞ怒る丈なら可いが、屹度何かするよ。復讐を遣るに極つてるよ。所が此方には世間体があり、向ふにやそんなものが丸でないんだから、いざとなると敵ひつこないんだ。解つたかね」(百五十二、539)めて、此所に世の中があるのだと極めて掛つた彼は、急に後を振り返らせられた。さうして自分と反対な存在を注視すべく立ち留まつた。するとあゝあゝ是も人間だといふ心持が、今日迄まだ会つた事もない幽霊のやうなものを見詰めゐるうちに起つた。極めて縁の遠いものは却つて縁の近いものだつたといふ事実が彼の眼前に現はれた。」(百六十五、590 - 59)そして「一日も早く朝鮮へ立つて貰ふのが上策なんだ。でないと何時何んな目に逢ふか解つたもんぢやない」とするのです。小林への気持ちが追放に近い気持ちであるのは確かです。しかもそれは軽蔑から恐怖に変わっています。できれば日本を離れたくないと言うのが小林の本心でしたが、そうした気持ちが汲み取られることはないのです。その理由は、教育や家や人を持たないゆえにもつことになった、つまり自らの境遇に対する「不平」でした。そうした不平に対する恐怖、貧しい階層に対する無関心は、まさにその無関心によって復讐されるのでは、といった恐怖に変わるのです。それは、小林と一緒に出会った原に対して「短銃を出す」(百六十三、585)のではないかという「変な妄想」を引き起こさせたのと通ずる気持ちと言えるでしょう。誰もが持っている未知のものへの不安なのです。そこで出されたのは「一通の手紙」(百六十三、586)でしたが、それとて、未知の世界の話であるという意味では、依然として津田には「恐怖」の存在でしかありません。それは、それを持ってきた青年が「階級なり、思想なり、職業なり、服装なり、種々な点に於て随分な距離があつた」(百六十二、578)ゆえの恐怖でもあります。それは、小林が「相手が身分も地位も財産も一定の職業もない僕だといふ事が、聡明な君を煩はしてゐる」と指摘する通りなのです。(百五十八、561)ここに出てくる原の手紙は、将来の小林の姿とも言えるでしょう。そして、津田は「この手紙程縁の遠いものはない」としながらも、すこし影響を受けるようにも見えます。「何処かでおやと思つた。今迄前の方ばかり眺そして小林は「凡て君には無関係」としながら「君の道徳観をもう少し大きくして眺めたら何うだい」と促します。(百六十五、593)すると「不安が起こる」だろうと。しかし津田は、「意地にも小林如きものの思想なり議論なりを、切つて棄てなければならなかつた。一人になつた彼は、電車の中ですぐ温泉場の様子などを想像に描き始めた」と書かれます。(百六十七、600)このあと、津田が小林を引き止めたかどうか、『明暗』は書かずに終わっていまいました。しかし、おそらく津田やお延た小林を引き止めるような行動を取るべき根拠は少なくとも現在の『明暗』の中にはありません。津田は「家を一軒持つて」(百五、359)いて、居場所を確保しています。そういう意味では居場所を持たない小林の不安を理解することはないのでしょう。津田は自分の身体・健康への不安を抱え、お延は「何うぞ、あたしを安心させて下さい。助けると思つて安心させて下さい。貴方以外にあたしは憑り掛り所のない女なんですから。あなたに外されると、あたしはそれぎり倒れてしまはなければならない心細い女なんですから。だから何うぞ安心しろと云つて下さい。たつた一口で可いから安心しろと云つて下さい」(百四十九、527)と訴えるほどに、夫との<関係>に対する不安を抱えています。お延の「不安」は心の問題で、津田の不安は身体的な問題です。そして居場所を失った小林の不安はその両方を合わせたものといえるでしょう。しかし小林の不安に共鳴することのついにない、定住者たちの不安を、『明暗』は描いて、追われていくものたちの不安を描いている小説といえるのです。434