ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALにとっても、津田にとっても、清子の心変わりは謎であり、傷となっています。吉川夫人は「男らしく」という言葉を使います。「未練を晴らす」という言い方もします。どうしたらいいのかと、聞き返す津田に向かって、「あなたは馬鹿ね。そのくらいのことが解らないでどうするんです。会って訊くだけじゃありませんか」。ずいぶんストレートですが、吉川夫人はそう提案します。いま、清子は静養のため温泉場に逗留しているから、そこへ訪ねていって、「未練の片を付けて来る」がいい、と。これは新聞連載でいうと「一三九」「一四〇」にあたります。吉川夫人の態度はかなり強引なものに見えます。とはいえ、そもそも二人を引き合わせたのは自分だからという責任感や、清子が吉川夫人に対しても理由を告げずに津田から離れたことについて、顔を潰されたような後味の悪さを抱いていると考えれば、強引に見える態度と提案の背景は把握できるかたちに書かれています。たとえば、「一三四」に次のように書かれています。「ところがいざという間際になって、夫人の自信は見事に鼻柱を挫かれた。津田の高慢も助かるはずはなかった。夫人の自信と共に一棒に撲殺された。肝心の鳥はふいと逃げたぎり、遂に夫人の手に戻って来なかった」。津田は、勧められるまま温泉場へ出かけます。それほど混んでいない時期ですが、滞在している客が何人かいます。津田は、清子に会うべきか、引き返したほうがよいか、会ってどうするのかと逡巡しますが、結局は温泉場に泊まり、湯に浸かり、そのどこかにいるはずの清子の気配に対して、全身の感覚を傾けるような時間を過ごすのです。夜、湯からあがって自分の室へ戻ろうとした津田は、建物の中で道に迷います。新聞連載「一七五」ですが、廊下の鏡に映る人影が自分だと気づいてはっとする箇所があります。「彼は眼鼻立ちの整った好男子であった。顔の肌理も男としては勿体ないくらい濃かに出来上がっていた。彼はいつでもそこに自信をもっていた」。この自信がちょっと鼻につかないでもないですが、津田の性格の一端を表わしている箇所でもあります。鏡に映った像から、この自信を揺るがすような「不満足な印象」を受けたことに、津田は驚くのです。「これは自分の幽霊だ」と。温泉場の建物で迷い、自分の姿を幽霊のように感じる津田は、まるでこの箇所に描かれる水の流れや渦のように時間と空間が日常を離れてかたちを変えていく中に、身を置きます。「一七六」に見える〈気配〉の描写ここで、やっと「一七六」に入ります。津田が道を失い、迷っているその上の階で突然、音がするのはっきりです。それは「手に取るように判切しているので、彼はすぐその確的さの度合から押して、室の距離を定める事が出来た」。場所と方向と距離がわかるほど明確に聞こえたその音は、室の障子を開け閉てする音です。この温泉場に、他に客がいることを津田はもちろん知っています。でも、この音が津田に、階上にも客がいることを始めて知らせるのです。作者は、その直後にこんな文章を置きます。「というより、彼は漸く人間の存在に気が付いた」。この「人間の存在に」という表現は、この箇所の文脈に沿って読むと多少大げさに響くのですが、じつはこの後に続く清子との遭遇の場面を暗示するかのように働く表現だと思います。こう続きます。「今までまるで方角違いの刺戟に気を奪られていた彼は驚ろいた。勿論その驚きは微弱なものであった。けれども性質からいうと、既に死んだと思ったものが急に蘇った時に感ずる驚ろきと同じであった」。あの音を立てた人は下女か客か、わからないけれど、行き会ったら方角を教えてもらおう、と津田は考えます。すると、足音が聞こえてきます。「これは女だ。しかし下女ではない。ことによると……」「不意にこう感付いた彼の前に、もしやと思ったその本人が容赦なく現われた時、今しがた受けたより何十倍か強烈な驚ろきに囚われた津田の足は立ち竦んだ」。障子を開け閉てする音と足音に続いて、突然、津田の前に出現するのは清子その人です。「明暗」の中でも、とりわけ大事な、津田と清子の再会の場面です。二人はばったり会ってしまうのです。作者は、この箇所をとてもこまやかに描いています。時計で計る時間にすれば数秒ほどの心情とその顕われを、拡大して、スローモーションのように描出します。「驚きの時、不可思議の時、疑いの時、それらを経過した後で、彼女は始めて棒立になった」。津田の目に、清子が身を硬くし、蒼白くなる様子が映ります。清子はくるりと後ろを向き、立ち去り、姿を消します。この場面での二人の再会は、再会といっても言葉を436