ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

気配と遭遇交わすわけではなく、ただ互いに姿を認め合うだけで終わります。この遭遇の場面は、何度読んでも、作者が細心の注意を払って描いていることを感じます。これは津田の側だけのことにはなるものの、感覚的な段階を踏むのです。そのように書かれています。まず道に迷う津田の耳に階上から音が届き、続いて足音が聞こえるわけです。「ひょっとすると」と津田は感じ取るのです。こうした段階を踏まえた上での清子の出現なのだといえると思います。私はこれを、作者は清子の〈気配〉を描いているのだと考えました。清子の姿そのものを描く前に〈気配〉を打ち出し、津田がそこへ全身の感覚を向けざるをえないかたちになっているのです。ばったり出会って双方ともに驚いた、という内容をどのように描出するかという問題です。その経緯と場面を、どんな言葉で、何を描き、何を描かずにまとめていくのか。そう考えた場合、作者が非常に丹念に清子の〈気配〉を文章にのせていることが伝わってきます。津田の妻・お延については、どのように描かれているでしょうか。ここではお延と清子の比較を試みたいわけではないので、少し触れるだけにしますが、たとえば、新聞連載「一四」に、津田の帰宅の場面があります。「彼が玄関の格子へ手を掛けようとすると、格子のまだ開かない先に、障子のほうがすうと開いた。そうしてお延がいつのまにか彼の前に現われていた。彼は吃驚したように、薄化粧を施した彼女の横顔を眺めた」「彼は結婚後こんなことでよく自分の細君から驚かされた。彼女の行為は時として夫の先を越すという悪い結果を生む代りに、時としては非常に気の利いた証拠をも挙げた」。津田は、お延の性質について「眼先にちらつく洋刀の光のように眺めることがあった」と書かれています。「どこか気味の悪いという心持ちも起こった」と。新聞連載「一八五」には、津田が露骨にお延と清子を比べる箇所がありますが、それは先の「一四」に出てくるお延の性質を、別の表現で指摘する内容でもあります。「彼女は津田に一寸の余裕も与えない女であった。その代り自分にも五分の寛ぎさえ残しておくことのできない性質に生れついていた」。だから、「津田は終始受け身の働きを余儀なくされた。そうして彼女に応戦すべく緊張の苦痛と努力の窮屈さを嘗めなければならなかった」。対し、清子はそうではない、というわけです。だからこそ、津田は清子の〈気配〉を察知する、あるいはそれを追い求める方向へ神経を傾ける、といった描写が活きるのです。「一七六」に描かれる、感覚的な段階を踏む描写、つまり障子の音や足音、そこに立ち上がる〈気配〉を津田が追う過程こそは、津田と清子の間柄を示すものだと考えます。さらにいえば、この距離感や間柄は、清子の性質そのものだということです。「一八三」に見える〈気配〉の描写新聞連載の一、二回分を選ぶということで「一七六」とともに私が選んだのは「一八三」です。思いがけず、二人が遭遇した夜は過ぎて、翌朝のことです。津田は、吉川夫人が持たせてくれた果物籃にメッセージを添え、それを清子のもとへ届けさせます。ご都合がよろしければお目にかかりたい、と申し出るのです。清子は承諾し、津田は清子の室を訪ねます。この箇所も、私にとってとても印象的な場面です。なぜなら、これもまた清子をめぐる〈気配〉の描写の一例だと受け取れる箇所だからです。部屋に足を踏み入れる津田の目に映るものは、まずは清子ではないのです。部屋に置かれたさまざまな品が津田の視界に入ります。清子はそこにはいない、少なくとも姿が見えないのです。「黒柿の縁と台の付いた長方形の鏡」「横竪縞の厚い座蒲団」「桐で拵えた小型の長火鉢」「黒塗の衣桁」「異性に附着する花やかな色と手触りの滑こそうな絹の縞」「寒菊の花」などが、津田の目に映ります。さらに、座蒲団が二つ。「濃茶に染めた縮緬のなかに、牡丹か何かの模様をたった一つ丸く白に残したその敷物は、品柄からいっても、また来客を待ち受ける準備としても、物々しいものであった」。二つ向かい合わせに敷かれた座蒲団を見て、津田は直感します。「凡てが改まっている。これが今日会う二人の間に横わる運命の距離なのだろう」。突然、津田はこの距離に気づきます。そして、清子の室を訪れた自分を「咄嗟に悔いようとした」と書かれています。座布団を眺めている津田の前に、やっと清子が現われます。「縁側の隅」から現われるのです。清子がそんなところへ出て何をしていたのか、津田は理解できません。「しかし不思議な事に、この態度は、かご437