ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL連載開始までもうあまり日がない。締め切りが迫ってくる。胃の調子も芳しくない。体力を温存するには、どうするべきか。しかたがない、手持ちの材料を使って、登場人物の関係図もあるのだから、とにかく仕事にとりかかろう。そんなふうにして、漱石はまとまった分量のある明治四十四年十二月の日記に頼ったのではないでしょうか。もちろんただ書き写したのではありませんが、素材の選択においても、彼にはなんらかの予感があったはずです。痔の治療の頃の日々の記憶を用いれば、見えない言葉が動き出すはずだとの予感です。痔の描写は、『明暗』のなかに分散されることになりました。紹介するまでもないほど有名な箇所ですが、あえて示します。津田は診察のあと無言のまま帯を締め直し、袴をはいてから医者に尋ねます。「腸迄続いてゐるとすると、癒りつこないんですか」「そんな事はありません」医者は活溌にまた無雑作に津田の言葉を否定した。併せて彼の気分をも否定する如くに。「たゞ今迄の様に穴の掃除ばかりしてゐては駄目なんです。それぢや何時迄経つても肉の上りこはないから、今度は治療法を変へて根本的の手術を一思いに遣るより外に仕方がありませんね」「根本的の治療と云うと」「切開です。切開して穴と腸と一所にして仕舞ふんです。すると天然自然割かれた面の両側が癒着して来ますから、まあ本式に癒るやうになるんです」医者はこの「根本的の治療」のために「探り」を入れたのでした。津田には、自分の内側深くに「探り」を入れる勇気も度量もありません。つねに入れられる方です。『明暗』における「探り」の動作主は医者であり、お延であり、吉川夫人であり、お秀であり、友人の小林であって、津田その人ではないのです。その点を強調するならば、第一文を「津田は探りを入れられた後、手術台の上から医者を見上げた」としてもよかったわけです。しかし漱石は、津田を受動的な位置に置きました。診察台に横たわって医師のなすがままに任せるという究極の受け身を通して、この小説そのものが受け身であることを示したのです。『漱石全集第十一巻明暗』の、十川信介氏の注解によれば、漱石は明治四十四年八月、関西で講演していたときに胃潰瘍を悪化させ、大阪の湯川病院に一ヶ月ほど入院しています。そして、入院中から臀部に異常を覚え、九月十四日に帰京したのち、神田の佐藤治療院におもむき、肛門周囲膿瘍と診断されて治療を受けます。いったんはよくなるのですが、翌大正元年の九月に病状がふたたび悪化し、痔瘻の手術を受けました。これが「根本的の治療」になります。注目すべきは、「痔を切開して以後丸で日記をつけない」とある、明治四十四年十一月の記述です。漱石の体調はすぐれませんでした。しかも同月、のちに『彼岸過迄』の第四章で描かれる娘ひな子の急死という、大きな悲劇に見舞われているのです。まったくつけていないと記されたその日から二週間以上が経過した十一月二十九日(木)に、以下のような記述が読まれます。「其通り中山さんがやつて来たが、何だか様子が可笑しいから注射をしませうと云つて注射をしたが効目がない、肛門を見ると開いている。眼を開けて照らすと瞳孔が散つてゐる。是は駄目ですと手もなく云つて仕舞ふ。何だか嘘の様な気がする」医者は眼よりも先に肛門を調べました。死とともに、括約筋は緩みます。痔もなにもなくなり、掻き出す手間もなくなります。奇妙なことですが、「何だか嘘の様な気がする」この名状しがたい悲しみには、痔の治療の折の沈黙が張り付いているのです。娘の「死」は、彼の「痔」と対になっています。「し」に濁点があるかないかのちがいです。葬式は十二月二日(土)に行われ、娘は落合の焼き場で荼毘に付されました。「○落合の焼場へ行く自分、倫[鏡子の弟、中根ひとし。この年、帝大を出たばかり]、小宮。小供の時見た記憶が少しある。一等の竈に入れて鍵を持つて帰る。(十円だけれども子供だから六円いくらで済む)」父親の気持ちは、言葉に残されていません。具体的な行動と、こんな状況にふさわしくない金銭の話444