ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

ページ
447/542

このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている447ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

「探りを入れること」―『明暗』の書き出しから―がわざとのように書かれていて、それがかえって胸に迫ってきます。明治時代の主たる火葬の燃料は薪でした(「大日本百科全書」)。焼却には時間がかかります。夜に焼いて、骨を拾うのは翌日になるのが一般的でした。つまり、焼き場には二度行かなければならないのです。漱石夫妻は翌三日にふたたび落合に向かうのですが、そこでひとつの事件が起こります。「○火葬場に着いて鍵はときくと妻は忘れましたといふ。愚な事だと思つて腹が立つ。家から此処迄四十分懸つてゐるから、今から取に行けば往来八十分でさうして今十時だから十一時二十分になつて仕舞ふ」一刻も早く娘の骨を拾ってやりたいなどと漱石は書きません。痛んだ心のうちを悟られないよう、探られないようにしています。鍵は、使いをやって、時間内になんとかとどき、このあと拾骨が行われます。漱石は窯の鍵を自分であけず、「おんぼう」に任せ、夫妻は骨を「竹箸と木箸を一本宛にして」白い壺に入れていきました。「おんぼうの一人は箸で壺の中をかき交ぜて骨の容積を少なくする」とあるように、「探り」を入れるゾンデの代わりに、ここでは箸が幼い娘の骨を掻き出すために用いられているのです。しかし、じつのところ、掻き出されたものは痔疾でも骨でもなく、父親の心でした。日記は箇条書きのようにつづいています。「○生きて居るときはひな子がほかの子よりも大切だとも思はなかつた。死んで見るとあれが一番可愛い様に思ふ。さうして残つた子は入らない様に見える。」「○表をあるいて小い子供を見ると此子が健全に遊んでゐるのに吾子は何故生きてゐられないのかといふ不審が起る」「○昨日不図座敷にあつた炭取を見た。此炭取は自分が外国から帰つて世帯を持ちたてにせめて炭取丈でもと思つて奇麗なのを買つて置いた。それはひな子の生れる五六年も前の事である。其炭取はまだどこも何ともなく存在してゐるのに、いくらでも代りのある炭取は依然としてあるのに、破壊してもすぐ償ふ事の出来る炭取はかうしてあるのに、かけ代のないひな子は死んで仕舞つた。どうして炭取と代る事が出来なかつたのだらう」慟哭と言ってもいい一節です。前夜目にした炭取の器や、羽根でできた刷毛の映像が、拾骨の場面では黒から白に色を変えてあらわれ、すでに引いた四日の記述につづいて、五日の日記には、娘の死と痔疾の話題が交互に出てくるという、やや異常な状態になります。「○新聞を見ると官軍と革命軍の間に三日間の休戦が成立して其間に講和条約をきめるのださうである。彼等からみればひな子の死んだ事などは何でもあるまい。自分の肛門も勘定には這入るまい。」(十二月五日)さらにその翌日には医者のところで顕微鏡を見せてもらう記述があって、これもまた微調整されたうえで虚構に活かされることになるのですが、痔の話題はそのまま娘の死に結びついているのですから、『明暗』のなかの痔疾の話題の裏には、本当はこのときの記憶も張り付いているはずなのです。これは父親の悲しみに対する「探り」を拒む一種の隠蔽でもあったとも言えるでしょう。痔を切り、掻き落とすことはできても、悲しみの連想を断ち切ることはできません。『明暗』の書き出し=掻き出しは、すでに命の絶えた大切な存在、いや、命が絶えてはじめてその大切さが理解できたものを掻き集めるためのゾンデだったのです。第一文から死と結びついていた『明暗』は、第四十章でこんな場面を迎えます。痔の手術で入院するため、津田がお延とふたり、それぞれに人力を呼んで出かけようとしたとき、「大変。忘れものがあるの」とお延が言い出します。「何だい。何を忘れたんだい」と問う津田に「思案するらしい様子を」して、「ちょっと待っててちょうだい。すぐだから」と、彼女は津田を残して自分だけ車を戻させます。戻って来ると、「帯の間から一尺ばかりの鉄製の鎖を出して長くぶら下げて見せ」ました。「其鎖の端には環があつて、環の中には大小五六個の鍵が通してあるので、鎖を高く示さうとしたお延の所作と共に、ぢやらぢやらといふ音が津田の耳に響いた」とつづいて、以下のような会話がなされます。445