ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL「是忘れたの。箪笥の上へ置きつ放しにした儘」夫婦以外に下女しか居ない彼等の家庭では、二人揃つて外出する時の用心に、大事なものに錠を卸して置いて、何方かゞ鍵丈持つて出る必要があつた。「お前預かつておいで」ぢやらぢやらするものを再び帯の間に押し込んだお延は、平手でぽんとその上を敲きながら、津田を見て微笑した。「大丈夫」俥は再び走け出した。やや強引な解釈をすれば、娘の死の場面の痛切さは、お延が「鍵」を忘れることによって、彼らが住んでいる「家」を「窯」に、つまり一種の「火葬場」にしてしまったことに由来すると言えるかもしれません。日記の記述者は、大切な存在の死をもってなにか新しいものを得ようとしていました。娘の臨終を告げられる前、肛門が開いていたことを書き留めるその姿勢は、『明暗』で言えば医者の眼差しに近づいています。肛門は人体において自分では直接見ることのできない場所のひとつです。見えない穴です。にもかかわらず、他者にとって、とくに医者にとっては、他のどんな穴よりも見やすいところにあるのです。「極めて縁の遠いものは却つて縁の近いものだつたといふ事実が彼の眼前に現はれた」とあるその場所こそが、「探り」を入れるべき穴なのです。もうひとつ重要なことは、「探り」を入れる医者が、第三章の、津田のお延に対する台詞のなかで「小林さん」と呼ばれている点です。津田にはおなじ名字の厄介な友人がいて、こちらの小林はお延の前に現れ、津田にべつの女の影があることをほのめかします。夫の友人ですから、お延は彼を「小林さん」と呼びますが、そうなるとどちらの小林のこと言っているのか、「探り」を入れないと混乱をきたすことになるでしょう。津田にとっては、医者の方こそ「さん」づけで呼ばれる存在であって、友人はあくまで呼び捨てです。要するに、津田の心身に「探り」を入れる探偵は二人いるのです。二人の小林によって、彼は心のなかの膿みを掻き出してもらうのです。津田は吉川夫人に促され、傷の癒えないうちにという理由をつけて、清子が湯治している湯河原へ向かいます。このとき国府津から軽便鉄道に乗るのですが、「軽便鉄道」の字面は、便を軽くし、通じをよくする疎通の装置のようにも読めないでしょうか。清子のもとにたどり着くには、津田はこの軽便に乗り、しかも途中で「脱線」による停車を体験しなければなりません(百六十八~百七十章)。軽便とは言いつつ、便が詰まったうえに脱線までするこの小さな汽車は、第一章の「探り」を入れられたあと、診療所をでて市電に乗って帰途につく第二章を思い起こさせます。満員の電車のなか、彼は沈んだ気持ちで、「去年の疼痛」をありありと記憶に呼び覚まします。ベッドに横たえられ、鎖につながれた犬の様におびえている自分の姿を想像するのです。追い詰められた津田はふたたび「探り」を入れられ、その先にある根本的な治療を頭のなかで体験しているわけです。漱石の弟子である松岡譲は、師が『明暗』について語りながら、「随所に埋めてある芋を、段々掘り出し乍ら行く(此時先生は口のあたりに独特の微笑を見せて、芋を掘り出す手付をされた)ことになつてるのだから、その作者の意図を考へもせずに批評するのでは困る」と述べ、「其時の芋を掘るといはれた時の手付が今でも時々目に浮ぶ」(『明暗』の頃」『漱石全集』別巻)と記しています。結局のところ、『明暗』は、「探り」を入れられた男が、「穴と腸を一所にして仕舞ふ」心の切開手術をあちこちで行い、自分のなかに眠っていた感情の芋を、言葉の芋を掘り起こしながら徐々に死に近づき、なんとか帰還しようとする話なのかもしれません。途中で道を塞いでいる隆起した瘤のような障害物を切開して取り除き、掻き出し、さらにその模様を書き出すこと。湯河原でこの先なにが起ころうとも、「天然自然割かれた面の両側が癒着」するような疎通がなされ、戻って来る動きが、ゾンデを抜く動きが付与されるはずです。そしてこの展開を予想させ、未完の長篇ぜんたいを支えているのが、「医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下した」という冒頭の「探り」だったと言えるのではないでしょうか。*本文引用はすべて『漱石全集』(全二十八巻、岩波書店)による。参考文献*内田道雄『夏目漱石『明暗』まで』(おうふう、一九九八年)*小島信夫『批評集成8漱石を読む』(水声社、446