ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

ページ
455/542

このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている455ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

パネルディスカッションいうのはそういう意味があって、しかもあんまり良い意味じゃない意味、あだ名から作られた名字があったりすると。けれど名字としては、呼びかけるときはたとえばゴルバチョフと言うと、もとはゴルバーチというせむしという意味の単語から作った名字なのですけど、ゴルバチョフという名字として使ったときにはそういう意識はされない。これは日本人でも同じで、「中島」といったら日本人は誰でも、中や島という漢字の意味は知っていますが、「中島さん」と呼びかけたときに、頭の中に島を思い浮かべる人はいない。まったく同じ現象なのです。けれど、それをあえてドストエフスキーは、登場人物に何か意味ありげな名字を付けているのです。それを二葉亭が今度真似して、『浮雲』では「文三」という、文学の「文」という文字の入った主人公に対して、ライバルは出世ができる「昇」という名前を付けているということをやっているのですが、そんなことをちょっと意識してみると、この小林っていう二人に同じ名字を与えたというのは、漱石の意図があるのではと思えなくもない。ただ、そこにもう一つ引っ掛かりがあって、朝鮮に行こうとしている小林ですけど、最初の方で飲んで絡みますよね、主人公に。飲んでやけに饒舌になって相手の方がもう答えるのが嫌になって黙ってしまうぐらいしゃべっている。これは『それから』でも、平岡という大阪で失敗した人物が来て、飲んで、ちょうど今度の「朝日新聞」連載で昨日の朝刊のところなのですけど、急に饒舌になって、長広舌をふるう。相手の代助の方はもう答えようがなくなって黙ってしまうというのが、実はドストエフスキーではさっき挙げたマルメラードフとか、何人かいますが、そういう特殊な名前を付けられた人物が酒場で飲んで、相手にしゃべらせずにどんどんどんどん一人でしゃべってしまって長口舌をふるう。平岡とか小林とかいう人物像というのは確かにドストエフスキー的だなと。そういう意味で、ドストエフスキーがそういう名字で遊んでいるっていうのがもし漱石が知っていればですが、小林という名字にも意味があるのかなと思わなくもないですけれども。ちょっと皆さんのお話で小林という話が出たので、ドストエフスキーと関連づけてお話をしてみました。質問にあるような不安という意味で言いますと、今日わたしが午前中お話ししたのは、むしろ社会的とか政治的な不安とは切り離して、中島さんが先ほど指摘されたように、意識とか、つまり、二葉亭は哲学的な探求というのをずっとしていて、何がいちばん間違いのないものかという時、デカルトと一緒なんですが、我思うというところがまず間違いなのだといいます。二葉亭の言い方は、我思うは確かだけど、我ありまでは言えないだろうというぐらい徹底した懐疑主義なのですね。我思うという、つまり、意識はある。そこまでは確かだと。それだけは自分としても頼れるだろうと思うのですが、それすら、意識というものすら消えてしまう瞬間というのは死です。それから、自分でコントロールできなくなるっていうのが狂気ですね。それに対する不安が二葉亭のいちばんの関心事になっていて、それが文学作品の中に具体的に描かれているという、そういうものを二葉亭は翻訳の対象として選んでいる。それがその頃のいろんなヨーロッパの世紀末文学と一言で括ってしまいましたけれども、そういう作品の中にそういう場面が実は多いのですね。それは哲学的に何か、死とは何かとか、真正面から論じているのではなくて、何かたまたま町を歩いていたら葬列が通った、いずれは自分もその棺桶の中に入る身分だ、そう思ったときに、急に胸に手をあててこの心臓はいつまで動くのだろうかと思うようなそういう不安というものが描かれている。そういう不安を、あるいは読んだ人にそういう不安を誘発させてしまうような、そういう表現を持つ作品を二葉亭は選んで訳しているのですけれども、それは二葉亭だけが選択して選んでいるというよりも、その当時のやっぱりヨーロッパの流行なのだと思うのです。だから、二葉亭が訳したものだけではなくて、?外が訳したもの、『諸国物語』に入っている作品にもそういう作品がたくさん見られるように思いますので、それは単に二葉亭の個人的な興味であるとか、そういうよりもあるヨーロッパ文学を読む当時の人たちの共通の感覚というものがあるのではないかというのが、今日のわたしの主題だということです。もう一つ、社会的・政治的不安という点では、それこそ今日わたしが紹介した藤井先生の著書は、そういうのがメインなのですけれども、それについて言うならば、一つ問題になるのは、日露戦争ということだと思います。これは、国民文学というか、日本語、日本文学というのは日露戦争後急にすごい勢いで盛り上がって成453