ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL立するわけですけど、これは日本語ということ、あるいは日本人であるということ、日本の文学があるということは、これは、日露戦争をともに戦えたということと連動しているのですよね。これは日本語という共通の言語をしゃべり、日本文学という共通の文化を共有していて、そういう国民として育てあげられてしまった結果、日露戦争を戦ったわけですよね。ある国境、日本の場合は海なのですけれども、その中に生まれた人は同じ言葉をしゃべり、同じ文化を共有し、同じ歴史を共有し、そういう人たちが日本の兵隊として育てられた。それで戦った。しかも、外見上は勝つことができた。これが日露戦争なのです。つまり、それは誇りでもあるわけなのですけど、自分は、特に男性は、つまり兵隊として育て上げられた、いつ呼び出されて死を迎えるか分からない、そういう時代に日露戦争というのは日本がなったことなのだと。男であるから、生まれたからには、いつかはバタッと生命が絶たれてしまう。日本はそうなってしまった。それが大逆事件なんかにもつながるし、しかも、今度は、未来に、では希望があるかというと、今度は経済的ないろんな格差が出てきた。良い家に生まれたのだけど、長男で家を継ぐのでなければ、経済的にも立ちいかない。一旗海外へ出てあげないと駄目なのかというような、そういう不安。日本にこのままいても駄目なのではないかという不安。そういう政治的・社会的不安。過去の日露戦争を戦ったことによる不安。それから、これからどうなるかということの不安。小林的な不安。両方、社会的・政治的という意味ではそういう不安はある。この漱石の『それから』や『明暗』の時代にはあるのだろうというふうに思いました。中島:単なる個人でなくて、時代とか、あるいは国家においてもそういうふうなことが漱石の作品ではいつも浮かび上がってくるということだと思います。小山さんには、ポアンカレーのことも紹介していただいたわけなのですけれども、やはりお使いになった「レトリック」という言葉にすごく皆さん反応したわけですが、この点いかがでしょうか。小山:午前の最初に、ショック受けないでください、と注意喚起しましたけども、だいたい漱石ファンの方は崇め奉るのですよね。わたしも漱石ファンですけれども、崇め奉ってばっかりはいけないというので、ああいう表現をしました。『草枕』を例に出しました。人の世と人でなし。これは明らかにおかしいでしょう。おかしいのですけれども、あれは文学作品ですから、表現方法としての技として見れば見事です。スーッと吸い込まれて、『草枕』の世界に自然に入っていくわけです。うまいと思います。うまいと思うのだけども、分解して読んでみると、午前中に指摘したようなおかしなところがあるわけです。だけど、それは作品としては活かしているから、それはポジティブに評価していいのだろうと思います。ところが、『文学評論』で、「花は科学じゃない。鳥は科学じゃない。文学の研究は科学じゃない。しかし、云々」というところですね。あれは完全に間違っているわけです。二つおかしいところがあるというところは、午前中に話したので繰り返しませんけれども。創作活動と学術研究というのは分けて考えなければいけないわけです。漱石がああいう表現を『文学評論』の中でしたということは、漱石を知りたいという立場から見ますと、ロンドンに留学中にもがいていたということがよく分かります。溺れるもの藁をも掴むと言いますけれども、その藁にあたるのが科学だったのだろうと思います。漱石の性格を考えますと、自然科学のように、はっきりと結論が出て体系だってきれいな学問に見えるというものは、好みだったのだろうと思います。だから、それに憧れた。何とか活路を見出したいと思って、科学によりどころを求めて文学研究をしようと思ったわけですけれども。創作活動と違って学術研究というのは、そういうわけにはいかないのです。だから、こう言うと漱石ファンの方には「偉そうなことを言うな」と怒られるかもしれませんけれど、わたしはあの箇所を読んだときには、学問を舐めるなと漱石に言いたいなと思ったものです。本人もあとでこれは完全に失敗だったって気がついたのですけれどもね。つまり、午前中も言いましたけれども、自然科学の研究方法というのは、相手が自分のツボにはまったときというのはものすごく強いのです。それは何かというと、Evidenceですね。証拠を引っ張りだすことができるような対象の場合は非常に強いのです。ですけど、文学作品の場合は、今、皆さんいろいろおっしゃっているように自然科学のように真理を一つつかみ出して提示するということはできないのです。できなくていいのですよ。人間の知的活動というのはいろんなバリエーションがあるわけですから、それを混同してはいけないのですね。そういう意味で申し上げたので、必ずしも悪口を言っているわけじゃありません。ただ、漱石を知454