ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

鄭覲文の古樂復興と琴學―『中國音樂史』を手掛かりに―(59)476に獨?たりて、國樂の首に冠し、七弦琴と與に竝び稱さる(31)この認識にしたがえば、當時の音樂家は、西域から輸入された琵琶を中國化する過程で、古琴の指法を助けとすることでその藝術性を高めた。指法は、鄭覲文が琴學の優位性を主張する際に最も大きな根據として擧げられたものである。鄭覲文にとって、中國音樂の發展を支えたのはあくまでも琴學であった。ここから、鄭覲文が中國音樂の發展に對して描いていた方法論は以下のようにまとめられる。それは、周代から魏晉期までのように琴學を根本理論とすること、そして唐代の燕樂がそうであったように、外來の音樂と中國の音樂とを融合させることによって、新たな時代の音樂を切り開くことである。鄭覲文は、唐代の燕樂以來退化を續けてきた中國音樂に對して(32)、理想的には上古の音樂を究極のモデルとしつつも、現實的なアプローチとしては唐代燕樂の合奏をモデルとすることを選擇した。四、おわりに琴學の應用を積極的に推奬した鄭覲文は、當時の主流からいえば特別な存在であった。また、當時の琴士の中でも、これほど多くの樂器を手がけ、また樂團を率いて音樂界や文化會全體に對して大きな影響力を持った人物はいない。そして、鄭覲文は古樂の復興にあたって、西洋音樂推進派が主張するような樂譜や樂器の問題にも立ち向かった。實際に音樂會など大衆の前で合奏曲を演奏するにあたっては、もともとの中國樂器の持つ音域の狹さや音量の小ささが問題となった。そのため、鄭覲文は古樂器の改良を行った。たとえば、中國音樂史の編纂過程で、古代には七十二弦琵琶の制度があったことを知り、三ヶ月の時間を費やして、十二律七音がすべて揃い、高さは八尺一寸、音量は大きく、音域は廣く、筝、瑟、箜篌にできることはみなできるという「七十二弦琵琶」を製作した。大同樂會はこれら新しい古樂器を用いて、八オクターブの音域を持つ合奏曲を演奏した(33)。一連の樂器製作は、最終的にはすべてで一六三種の新造樂器を生み出した(34)。鄭覲文はこのとき、蕭友梅に大同樂會の古樂器復元事業の委員となることを要請したが、蕭友梅はそれを拒否し、學術雜誌の上で大同樂會の批判を展開した。鄭覲文は新しい音樂の創造を目指すにあたり、西洋音樂推進派と協力することを考えていたのだが、西洋の方法論に追従する蕭友梅には必ずしも受け入れられなかった。さて、鄭覲文の率いた樂團「大同樂會」の得意とした曲は、「有一種古曲合奏、爲本會專有品,如春江、霓裳、陽春、壽亭候等(古曲の合奏は本會の專賣特許であり、「春江」、「霓裳」、「陽春」、「壽亭候」などである)」と述べるように、いくつかの古曲の合奏であった。中でも「霓裳羽衣曲」は、唐玄宗の作として傳わる同題の曲をモチーフにしており、全十四幕の舞をともなう大作であった。この曲が大同樂會で最初に演奏されたのは一九二七年の定期演奏會のときであり、このときすでに同じく古樂合奏の「春江花月夜」、琵琶合奏の「陽春」が演奏されている。これらは「?次演奏、頗受社會及西人的歡迎(繰り返し演奏され、社會や西洋人からの大きな歡迎を受けている)」という状況であった。蕭友梅が五音音階で作曲した「新霓裳羽衣舞曲」が大衆からどのような評價を得たのかは分からないが、少なくとも鄭覲文は、蕭友梅とは異なる方法によって中國音樂を世界に發信したのであった。注釈(1)たとえば王光祈『中國音樂史』(一九三一年)では「鄭覲文君之《中國音樂史》,材料亦甚宏富,可惜多未注明出處,是以不敢盡量採用(鄭覲文『中國音樂史』は、材料が非常に豐富ではあるが、惜しむらくは引用の出所を明らかにしていないため、多くを採用することができないことである)」と批評されている。(2)大きくまとめればそれは、中國に音樂教育機關がなかったことと、科學的な記譜法を持った樂譜が發達しなかったことの二點に集約される。つまり、たとえ過去に中