ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

鄭覲文の古樂復興と琴學―『中國音樂史』を手掛かりに―(57)478由はここにあった。以下、關連する言及をみてみよう。今の琴を彈ずる者は往往にして體裁を顧ず、曲に遇へば輒ち一種の手法を以て之を出せば、千篇一律たり。曲性は尚ほ眞傳を得んや。其れ耳に入るる能はざるも,亦た宜しきかな(15)一たび半解を知る者、流亂して古譜を刪し、且つ往往にして口を雅淡なるに藉りて以て世を欺けば、神韻妙趣は喪失して殆ど盡く(16)ここでは、古琴を演奏するものの中にも琴譜の詳細な指法にしたがわず、表現力に缺けた千篇一律の演奏をしてしまい、なおかつそれを「雅淡」な味わいなのだと言い譯をする輩がいることが例示されている。鄭覲文はそのさらに奧にある原因を、「琴曲の意義は高深にして、學ぶ者其の神髓を得るに易からず……琴學の不振は、知音の少きに由るに非ず、乃ち琴を彈ずる者の其の長ずるを盡くす能はざるに由る」(17)というように琴學の意義が高遠であることに求めた。そうであればこそ鄭覲文にとって古琴の表現力は本來、「陽春白雪は天の時を?寫し、流水高山は地の理を形容し、以て鋒を冲き陣を陷るの壯圖、鳥語花香の韻事に及び、無聲無息の間,不見不聞の地に至れば、琴の妙用存せざる無きなり」(18)というほどのものである。したがって、鄭覲文は新しい音樂の理想的なモデルとして、琴曲にもとづく合奏曲の編曲を行った。たとえば、もともとは古琴の獨奏曲であった「昭君怨」は、五種類以上の古樂器による合奏曲「明妃?」として改變された。「是の曲は琴譜の中に在りては短調宮音たり、共に九節、五百餘字、句法は忽長忽短、三十餘字一句の者有り、一二字一句の者有り、頗る抑揚疾徐の妙を極む」(19)とあるように、古樂を題材とした作編曲を行うにあたって、鄭覲文の琴學に對する造詣の深さが功を奏したことが知られる。また、他にも大同樂會會員の張子玉からの建言を容れて、古琴曲「海水天風」を全十二段の大規模な合奏曲「冰花雪月」として蘇らせている(20)。このようにして、鄭覲文は積極的に大規模な合奏曲の作編曲を行った。鄭覲文は、樣々な場面で琴曲の獨奏も行っているが、合奏曲という形で社會に示した。これは「我が國の大樂は、古より重んずる所なるも、近來消退すること已に極まれり、遂に人の知曉する無きに至る」(21)という語によれば、こちらもまた上古の音樂を模範とするものであった。ただ、ここには租界に持ち込まれた西洋音樂の交響樂が、すでに上海の中國人をも魅了しはじめていたことを背景として考えなければならないだろう。四、琴學と燕樂鄭覲文は、當時の中國音樂が「歐化」していく状況を、外來文化の流入によって新たな風紀が釀成された北魏の樣子に重ね合わせて、以下のように述べた。北魏の美術は一時に妙?たり。今は西樂の最勝場たると雖も、亦た是を過ぎざるなり。乃ち環顧すれば今日國樂と號稱する者、相ひ去ること奚ぞ幾千萬里に止まらんや。衰弱すること已に極まり、坐に大好せしめ、文化は人に任せ、侵略せらること已まず、言念すること此に及べば、股の之が爲に慄し、心の之が爲に悸するを禁じず(22)鮮卑族の拓跋氏によって建國された北魏は、政治史的には、北魏の孝文帝による漢化政策が結果的に國家の分裂を招き、そののち西魏を繼承した北周が鮮卑回歸政策を取ったが、最終的には隋が南北を統一して北周の政策を改め、その後は漢族による唐王朝が長いこと支配體制を維持した。このようにして政治制度上の「胡化」は食い止められたが、美術史としては石窟寺院の佛像や壁畫などの佛教藝術が花開いた時代として知られており、また音樂史においてもこの頃から龜茲樂や西涼樂など西域の音樂がもたらされ、宮廷に用いられる音樂においても五弦の龜茲琵琶で七音音階が奏で