ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

鄭覲文の古樂復興と琴學―『中國音樂史』を手掛かりに―(55)480解が妥当性を缺いていることが窺える。このように、古代の音樂といえば五音音階だろうという發想はステレオタイプ以外の何物でもなく、したがって蕭友梅にはそもそも舊樂を積極的に理解しようとする態度があったかどうか疑わしい。裏を返せば、ここには蕭友梅の西洋音樂に對する過信が透けて見える。西洋音樂が普遍的な藝術性を宿していると信じて疑わなかった蕭友梅は、中國音樂に対して特段の魅力を感じていなかったように思われる。また、これに関連して言えば、先行研究の不足も指摘されなければならない。これまで往々にして、中國人の西洋音樂家が如何にして本場の西洋人音樂家と交流を持ったかという事例は盛んにとりあげられてきたが、中國人の古典音樂家が西洋人たちに對して積極的に働きかけていた事例や、西洋人音樂家が中國古典音樂を愛好していた事例については、高羅佩の名で知られるヴァン・グーリック(RobertH.van Gulik、一九一〇?一九六七)のような特殊な例を除いて、あまり言及されてこなかった。鄭覲文の率いた大同樂会の活動も、単なる民族樂團のように扱われることがあるが、実は古典に基盤を持つ中國音樂を世界に向けて發信しようという活動であり、多くの西洋人を振り向かせることに成功していた。蕭友梅とは方法論が異なるとはいえ、当時の中國音樂界を憂えるという點では共通していたと言える。特に、鄭覲文の場合は國樂に直接關わることで、その改善を目指した。そして、その理論を担ったのが鄭覲文『中國音樂史』であった。二、鄭覲文の立場と主張さて、鄭覲文は「大同樂會」という樂団を率いて、中國古樂器の講習や講演を行ったが、その設立とほとんど時を同じくして、北京では正式な音樂教育機関の設立に向けて一歩目が踏み出されていた。すなわち、一九一九年十一月、北京大學では「音樂研究會」が設立された。校長の蔡元培はそのための演説を次のような言葉から始めた。音樂は美術の一種であり、文化の進化と密接な關係を持つ。世界各國では文化を増進する方策を行うにあたり、かならず科學と美術をともに重んずる。我が國では科學の提唱についてはすでに始まっているが、美術についてはまだである(8)この場合の「美術」は音樂その他の藝術を包括する語として用いられている。かねてより「美育を以って宗教に代える」説を提唱し、藝術の持つ精神の涵養という社會的役割に注目していた蔡元培は、中國の文化を發揚していくためには、「美術」が科學と竝んで重要であるということを講じた。蔡元培はさらに、西洋の音樂家には往々にして學理にもとづいて自ら新譜を製作するものがあることと、中國の場合は音樂を愛好するものは、みな個人で自ら樂しむために、ひとまず舊譜にしたがい、その樣式にしたがって演奏するのみであることを對比的に擧げ、西洋音樂の進化の理由に科學的な方法論があったことを強調し、その上で「採西樂之特長,以補中樂之缺(西洋音樂の長所を採り、それによって中國音樂の缺點を補おう)」と呼びかけることで演説を締めくくった(9)。この蔡元培の計画にしたがって西洋音樂推進の旗頭となったのが、先に述べた蕭友梅である。これに對して、鄭覲文は古樂復興の立場をとり、古典音樂の教習や古樂器の復元、そして古曲にもとづく國樂の作編曲などの事業を通して、中國音樂の發展を目指した。とはいえ、古典音樂だけにとらわれることなく、「全世界の一切の音樂を以て、比較して一の至善盡美の樂體を出し、以て基本と爲し、然る後に方に之を成立する有り(10)」というように世界の音樂を意識した上での國樂復興であった。これは先に見た蔡元培の「採西樂之特長,以補中樂之缺」と重なり合うところが大きい。鄭覲文の古樂復興は、實際には蔡元培によって示された音樂文化發展の枠組みに背くものではない。蔡元培は音樂研究會設立時の演説の中で、中國音樂は、秦代以前にはすこぶる發達していたが、そののちにかえって退化してしまったようだと述べている。この發言は秦代以前の音樂が有していたとされる道徳的な感化力を尊ぶものと