ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

(49)『港の人』は何をしているのか―北村太郎の表現486ら免れて病が治癒する可能性とも見られ、それが「ちっとも……でてこない」ことはそのまま絶望であると言ってよい。第三連の四行は、「おもいながら」で連を跨いで、次の二行まで来て初めて、山下公園で考えたことだと分る。「午後」港に出かけたということは、「静物の位置をすこしなおす」のは夕方か夜ということになる。「海の教訓」を「もっときびしくてもいい」と思うのは、その人間が「とてもきびしい」状況に置かれているからだ。この物思いを喚起したのが横浜港の「海」である以上、ここで港は自身の孤独の度合をいっそう深めたと言わねばならない。この詩の孤独感がくっきりと伝わるのは、「部屋に帰って/静物の位置をすこしなおす」の二行の、ひとを寄せつけない「きびしさ」のせいだ。一人暮らしをしている詩人はおそらく「無」(という「必然」)に対面するのを避けるように「午後/やました公園をひとまわり」したに違いない。結果として(くだものや食器とは表現されない)「静物」の位置が意識化されるとしたら、それは詩人の感覚が殆ど病的に研ぎ澄まされたからである。静物の「位置」は「なおされる」のだが、「なおす」と言う以上、本来あるべき「位置」があり、修整されたことになる。しかもただ「なおす」のではなく、「すこし」なおす、と言われることで、一種の神経症的な精神の動きが前景化される。同様のことは港で「カモメがいっぱい舞って」いるのを見ていた経験を語る「11」にも言える。最終連が「カモメはとってもいい目をしているのだろうか/見ているうちに/こちらはだんだん目が見えなくなってきたよ/いい加減にしてくれよ/あんまり正常な行ないを見ていると/人ってものは/退廃的になるんだ」(39-40)と終わるこの詩では、「ひどく冷たい強風」(38)の中で詩人がそれを観察している。そもそも彼がなぜ「ヨットパーカのフードをすっぽりかぶって」まで「目だけをいそがしく動かしている」(39)のかを考えれば、語り手の孤独の濃さ、もっと言えばある種の鬱の精神状態が察せられてくるという仕掛けになっている。北村は一九八四年のエッセイの中で「たまにウォークマンを頭にかけて街を散歩することもないではない。?、つまり鬱状態のときなど、そうやって街や港へ行くと、これはどんな最新式医薬よりも効果がある――ということは?の限りない頂点にまで自己を引きつれていってくれるのであって、?から自分を解き放つには、それがいちばん効果的なのである」と書いている(「詩を書く〈いま〉」、『詩へ詩から』所収、23)。自我の集中から来る一種の鬱状態にとって、たとえば山下公園に散歩に行くことはその治療行為になぞらえられる。一九八四年のエッセイでは「人の内部は幾重にも襞がかさなって複雑であるかのようだ。内なる心への目がきびしいのは望ましいけれど、何事も程度問題である。近ごろ内向の度合いの人が多く、しまいには内閉にまで至ってしまう例も珍しくない。こうなっては内部への目差しも病的といわざるをえない。正直な話、わたくし自身にもその気がないとはいえない。この種の〈内閉シンドローム〉を打ちくずすには、なによりも新鮮な外部との接触がたいせつであるように思う。」(「てんとう虫」、『うたの言葉』所収、157)と書かれていた。山下公園でカモメを見ることは北村なりの外部との接触の試みであるに違いない。「内閉」が外部と触れ合うところで「11」の詩は成立していて、「とってもいい目をしているのだろうか」と思うのは外部の治療的作用のなせる業であり、「退廃的になる」のは「内閉」の働きが勝るからである。港のもう一つの働きがここから出てくる。一九八三年六月の「飯島耕一君への手紙」の最後で、近いうちに囲碁をと誘いながら「少し落ちついたら、ぜひ一局かこみたいね。放心状態になりたいんだよ、ぼくは。それには囲碁がなによりなんだね。」(『詩へ詩から』所収、43)と北村は言っているが、自己を充満したものと感じず、むしろ空虚でへこんだものと見ていた彼にとって、「放心」こそが求められる。「5」において山下公園の銀杏の落ち葉の上を歩いて「この世でないみたいなたよりない心持ちがする/いい天気で/ためいきも出そうにない」(23)と記された箇所を想起しよう。またこれも既に引いた港内一周の遊覧船に乗ったときの詩「25」の「帰るべき埠頭が/しだいに近づいてくるのが信じられない/見えるものが/見えなくなるよりないほど遠くになっていかないとは!」(81)という結びの箇所も、この視点からもう一度再検討することができる。遊覧船に乗るときの少し浮き立つ心持ちは誰もが経験しているだろう。ゆるやかな海上の運動は近くの水を見る限り、進んでいるか退いているか迷わせられる。一周まわるとき、さっ