ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL(48)487いる。これに類したことは「9」の「ゆうべ見た夢をおぼえていたことをおぼえていて/芯の夢を/ちっともおぼえていないと記憶しなおし」(32)という三行の運動にも窺われる。「13」では冒頭の「過ぎ去ったよろこびは/まだこない悲しみ」(43)と最終の二行の「まだこないよろこびは/過ぎ去った悲しみ」(45)とが一篇の詩を挟むように置かれている。或いは「12」では、「とくににんげんは/たましいのぶんだけ体重が加わっているから/抱きあっても/ただの重さではない/罪のぶんだけ/目方が減るというのではなく/いやに軽くなったり/そうかとおもうと/たがいに/とつぜんずっしりとしてしまって」(41-42)と語られていくのだが、「罪のぶんだけ」のあとは「目方が増える」でなければ論理的につながらない。それを承知で反対の「目方が減る」という表現を選ぶことは、「罪」という垂直的な倫理をいなして、文字通り「軽く」することになる。しかし相対的な度合の領する世界では重いと軽いは同じものの表現なのだ。最後の詩「33」では、ベッドで寝ていて水の滴る音がすることに対して「水でなければ/なんでありうるか」(107)と自問がなされる。最終連は「あれは/水/そうにきまっている/そうでなければ/なんでありえないか/夢のなかの答えがいくつあったって/ほかのいろであるわけがない/あしたも/おなじいろの天気であればいい」(109-110)と締め括られる。「なんでありうるか」と「なんでありえないか」の倒置表現はひとの主観の捉え方の相対性の表現になっている。「きょうは平穏な一日だった」という思いを含むこの詩において「平穏」とは「不穏」と同じことであり、その「いろ」は見方次第で双面を持つだけで、「おなじ」なのである。砂糖が溶けるには溶けるまで待たなければならないと言ったのはベルクソンだったが、彼が考究した伸び縮みする持続の時間の在りようは、『港の人』の時間の在りように見合っている。超越はなく、すべてが度合の差であるしかない世界に生きることは、北村太郎にとって喜びや自由だったか。最初の妻と子どもの突然の水死の体験を初めとして、死は北村の主題上の常数だったと考えれば、観念のタテの切れ込みを求めて得られない心情もあったかもしれない。しかし『港の人』という本が読み手にある種の喜びと自由の感覚を与えることは間違いない。そこには横浜の「港」というトポスが介在している。4.港の必要性『港の人』において詩人が港に行くことは、二方向に働く。一方でそれは、他人とは共有できない、自己の生死にまつわる悩みを抱えた者を、より孤独にする。「7」はその感覚をよく伝えている。無は一つみたいだけれどじつにたくさんある必然をいくら細かに砕いてみてもちっとも偶然はでてこない海の教訓はとてもきびしいでももっときびしくてもいいとおもいながら午後やました公園をひとまわりして部屋に帰って静物の位置をすこしなおす(26-27)第一連の「たくさんある」「無」のうちの一つは、北村自身の迫り来る死であり、それが「一つ」でないのは、自己の死は自分だけの死だからだ。第二連の「必然」を自己の病と死の必然性だと見れば、「偶然」はその必然性か