ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL(46)489て極まっている。「ジンチョウゲがにおう」という一行から始まる詩は、曇った夜に懐中電灯だけを頼りにして歩いている詩人の姿を提示する。「砂利が見えるほどの大きなひび割れ」が前にあるのが光で見えて「つんのめったらたいへんだぞ」と自らに言い聞かせる。詩は次のように終わる。うしろからだれかが来るこちらはゆっくりとしか歩けないから足をとめてさきにいかせるだれだろう?懐中電灯を空に向けたってなんの意味もないのにそうしてしまう死とは固有名詞との別れであり人名よ、地名よさようなら、ってことだちょっとあの世にいる気分になれたな、とおもういいにおいもしたし(89-90)暗闇を歩くこの経験は自らの死の予行演習をする寓話とも読めるが、集中唯一ゴチックの太文字で強調された「だれだろう?」は、ある種の軽い戦慄、恐怖の感覚をかきたて、寓話の中の死神のようなイメージをかすかに呼び起こす。すれちがう人は「いいにおい」をさせているので、女性であると推定される。それはあの世ならぬこの世のエロスの感覚、生の感覚であるが、ここではそれがそのまま死の「におい」であるかのように読者にさしだされている。「いいにおいもしたし」という付け足しのような一行がこの詩の肝で、「におい」という度合を表す感覚刺戟が生死という観念をいわば代演している。ここでは「におい」は「どこまでも生にちか」い死、この世に内在する死の表現なのである。度合の世界においてはすべては単独で佇立せず、相関性のうちに在る。距離(遠さと近さ)、速度(速さと遅さ)、概念の対になるような性質――『港の人』はそうしたものの表現に貫かれている。たとえば間口が狭く奥行きの深い「元町の船具屋」について書かれた「17」において、客は物を買おうとしても「おやじ」が「はるか遠くにすわっている」ためにためらってしまうと北村は言う。「まるで海の底に横に這って沈んでいくような心持ちになる/クモの巣か海藻か/えたいの知れぬ細いものが体に巻きつき/日の暮れになってもそこへたどり着けそうにない」(57)と言われるのだが、通常の現実感覚からすればこれは誇張だということになる。しかしここで北村は客の一人に身を潜めて、毎日を堅実・質実に暮らしている店主の存在からの心理的な距離の感覚を表出しているのだ。個人の主観において、距離は物理的なものではなく、「心持ち」次第で伸び縮みするものとしてある。同様に時間もまた時計の針では計られない。横浜港から出港する豪華客船クィーン・エリザベス二世号を見物人に混じって見送る詩「30」では、ゆっくりと港を出てゆく船の様子が細かに記される。「QE2は左へまわっていた/それがとっても遅いようにも意外に速いようにもおもわれた」(96)という箇所が示すのは、人の主観にとって速度(時間)とは、速さと遅さとが切り離し得ない形で結ばれているものだということだ。やがて「煙突のけむりはしだいに濃くなり/QE2はごく静かに/やはり遅いような速いような速度で港から出ていった/人生の一日はいつもあっという間に終わってしまう/たくさんの見物人といっしょに/ぼくも公園の林のほうへ引き返した」(97)と記される。或る時には速く或る時には遅い、というのではない。速くもあり遅くもあるのだ。船の速度の話が次の行で「人生の一日はいつもあっという間に終わってしまう」という思考に接続されるのは、それが人の生きる時間についての詩だからであり、「ぼくも」と言うようにそれが北村だけの問題ではなく、「港の人」ぜんたい、人間についての話だからである。最後に置かれた「33」の第二連で、