ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

(45)『港の人』は何をしているのか―北村太郎の表現490うなだれてやってこようとしている(23)ここで終わる詩を読者はどう受けとるべきだろうか。「助けてくれそうな人」とは詩人の知人なのか見知らぬ人なのか、「うなだれて」いるとはどういう意味か、その人が「やってこようとしている」ことはいいことなのか悪いことなのか、読み手に委ねられたまま詩が終わる。読者の関心は読みながら横に動き、最終行でとまらずに、詩行の外側へと運動し続けるという意味で、これは陳述的ではなく動詞的な詩なのである。3.度合北村太郎の詩が水平性をめざすとは、理念的な次元においてはいかなることなのか。一つの答えは、彼が世界と人間の〈生〉を度合、程度の差とみなそうとしていた、ということだ。言い換えればそこでは世界には外部・超越は存在しない。それゆえ外から世界に亀裂を入れ、持続を截ち切るような垂直性は、リアルでないものとして詩から拭い去られる。『港の人』における度合の問題を考える際の出発点になるのは「16」で、その第二連で北村は「ぼくの骨髄は/寒暖計で/それがきょうはずいぶん低いとおもう/水銀は腰のあたりか/うつむいて歩いていると/枯葉がすこし舞って、しつっこくついてくる」(53)と書いている。冒頭で述べたように北村は多発性骨髄腫を発病していて、身体の異状の感覚と常に一緒に生きていた。リアルな生存の感覚をもとに詩が書かれるものである以上、この敏感な身体を一個の基準(「寒暖計」)として彼が世界を感じ考えたことは至当であるだろう。この「寒暖計」にもとづくとき、世界を外部から裁断するような観念はアンリアルなものとして後景に退かざるを得ない。だから『港の人』では色と音と匂いに対して意識的なのだ。「24」の冒頭の三行「黄が緑にちかいように/死は/どこまでも生にちかくて」(77)はそれを端的に示している。この身体にとっては「繊維の立てる音でも/けっこうそうぞうしいもの」(78)になる。もちろん世界にせよ人の生活にせよ感覚のグラデーションだけで対処できるものではないと北村は弁えている。既に言及した詩だが「22」においては、「現象を/たとえば色彩とおもうことで/こころが慰められることもある/いくつかの本質が/それぞれ日々刻々くずれていくとしても/白/黒/赤/それらの変化だけで生きていくのに事足りる」(71-72)と書き始められた詩は、「でも/色彩と/時間とは/音と/空間とは/耐えがたい関係にしかありえなくて」(72-73)と進んでいく。ここでは「本質」とは観念の謂いであり、たとえそれが「1」の詩のように退隠していっても、身体にもとづく感覚によって度合の「変化」だけで自己の生を支えようとすることの、ある種の挫折ぶりが示されている。既に述べたように観念=ロゴス=本質=意味の世界は否定されるわけではない。そこで感覚の記述は観念の運動とのある種の緊張関係に置かれることになる。「21」では、眠っている間にも頭の中で喋っていて目が覚めたあとのことが、次のように記されて詩が終わる。人びとの影はことばより先にもうとっくに光のなかに消えてしまっていて壁はきのうよりもずっと白い(69-70)「ことば」が観念の運動を示すとすれば、目覚めてそれが退行していくにつれて感覚の世界が度合を深める。だがなぜ壁が比較級として「きのうよりもずっと白い」のかと言えば、寝ていても観念(「ことば」)に浸食されているその深さに応じて、壁の白の色彩もまた深み、度合を濃くするからである。色のグラデーションの変化をもたらすものはここでは観念なのだ。『港の人』が最も重視する感覚が「におい」であることは既に述べた。「鼻は/まだ蚊取線香のにおいを覚えていて」(「2」、14)、「煮られるキャベツとタマネギとコショウのにおいが/ひろがる」(「10」、36)、「においだけが灰に残っている」(「22」、73)、といった細部の表現、それは「28」におい