ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

ページ
494/542

このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている494ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

(43)『港の人』は何をしているのか―北村太郎の表現492じつつ言葉を吐いているので一概に言ってはいけないが、一人称を示す語が「おれ」であり、ちょっとべらんめえ調な「おれなんざ」を含めて、この主体が男性的であることも自明である。ちなみに北村は自分を指す一人称を基本的に平仮名の「わたくし」にしており、詩のトーンによって「おれ」が用いられることはあるが、この点田村の「おれ」や「ぼく」の使用法と著しい対象を見せている。詩集中の白眉と言える詩「所有権」は「おれは〈物〉だから/六十歳の〈物〉だから/とっくに減価償却はすんでいる」(80)と始まり、おれがいつどこでだれと言葉をかわしたというんだおれは〈物〉だからロゴスはいらないロゴス的存在でないおかげで誤解偏見独断から脱走することができたのだ(85-86)と語る。ここで言う「ロゴス」とは観念のことであり、『奴隷の歓び』は詩人としての自己の〈反・観念〉の立場の宣言のようになっている。この詩の最後は「おれは/〈物〉の言葉だけで/喋りつづけているのさ」(88)と締め括られるが、言葉というものが否応なく「物」ではなく意味(「ロゴス」)を巻き込み、観念の運動に骨から絡み合っていることを田村隆一が知らなかったわけではない。すべてわかった上で、あえて言葉を使って反・ロゴスの態度を言ってみせている、それはパフォーマティヴな言葉なのだ。その文体はきわめて堅固なシンタックスを持ち、文として乱れがなく、それ自体とても論理的な形をしている。「さ」という語尾も田村が多用するもので、北村太郎にも探せば用例は見つかるとはいえ、田村のおとこ言葉の典型だと評することができる。「誤解/偏見/独断」と漢字二文字の抽象語が並列されて、田村ならではの垂直でザッハリッヒなリズムが脈動している。田村隆一にも特に晩年には口語的で軽みを帯びた詩形が見られないわけではないので、この比較はやや「ためにする」感じが否めないにしても、『奴隷の歓び』は北村太郎には絶対に書けないもので、それゆえにあえて対比させてみる意味がある。あざとい対比になることを承知の上で、ここで『港の人』の「14」全篇を引くことにする。古ネズミはチーズを食わないというがいくら年をとってもぜんぜんこりない「いつまでも不良少年でいてください!」という手紙をもらったのは一月ちょうどブルーチーズに?みついているときでさすがにほろりとしてしまった老いのみ老いて墓知らぬネズミ、か(46-47)ライト・ヴァースと呼んでもよい、『港の人』でも最も軽みのある詩だが、ここでの主題はやはり自己の「老い」である。しかし北村はそれを老奴隷の舟唄に仮託するのではなく、「古ネズミ」に擬して遊んでいる(どちらにおいても詩作が遊びになっている点は同じだ)。この詩で際立っているのは平仮名である(「ぜんぜんこりない」「さすがにほろりとしてしまった」)。そして、三つのヴァースの間の行またぎは、センテンスの途中に置かれている。もしも「ぜんぜんこりない」の四行目が第一連にあって、「さすがに」の行が第二連最終行に置かれれば、この印象は生まれない。つまり縦に切れ目を