ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL(40)495のイチョウ並木から落ちた葉の上を歩いているときのそのうえを歩くとこの世でないみたいなたよりない心持ちがする(23)という「たよりない心持ち」がそれに当たる。それはまた「23」の冒頭の言い回し方で言うなら「からだが/浮きあがるような感じ」(74)であるとも言える。つまりある種の宙吊り状態を経験している者のそのさなかの感覚の提示である。同時にまた「現代詩手帖」連載時には最後に位置していた「32」の詩から引けば、なしとげられないことはなしとげられないままにそれこそ風にさらされていればいい木だってなにひとつ完結しているわけではないのだ(105)という箇所に明瞭に語られている、宙吊り状態を甘受して生きることの決意、というと大仰な響きになるが、日々の実存の意識とでも言えるものが主題になっている。更に「20」の「こわれるものを見ることはない/どんなに悩んでたって鳥の声はいつもとおんなじだ」(67)、および詩集末尾に置かれた「33」の締め括りの四行、「夢のなかの答えがいくつあったって/ほかのいろであるわけがない/あしたも/おなじいろの天気であればいい」(110)を重ね合わせれば、一冊の詩集の主題、あるいは詩人の〈メッセージ〉と言うべきものがきわめて大ざっぱに浮かび上がるだろう。完治の見込みのない病を背負い、早晩近づいてくる死への不安や恐れにとらわれながら、その「たよりない心持ち」、「からだが/浮きあがるような感じ」を、一日ずつやり過ごして、(完結とは死である以上)完結し得ない生の状態を「なしとげられないことはなしとげられないまま」と観じて、「おなじいろ」の明日を望んで生きる――そうした姿勢、生への臨み方。これは晩年(一九九〇年)の北村自身の言葉、「パスカルの時代、極小や極大は思考・観念の世界にしかなかった。それが現代では現実の世界になりつつある。しかし、わたくしは「中ぶらりん」の状態を人間的だと思う。引き裂かれて中間にあり、つねに矛盾をはらんでいる緊張こそ〈生〉なのだから。」(「中ぶらりん」、『すてきな人生』所収、121)によっても表明されている。「極小」や「極大」を求める黙示録的心性(=「大きな物語」)に抗して、反・黙示録を貫こうとする北村は、中間にただよい、さまよい、宙吊られることを、自己の「生」のとるノーマルな姿とみなそうとしている。「〈港の人〉とは、気まぐれなぼくであり、また、ぼくとはまったく別の人でもあるようです」(113)と『港の人』の「あとがき」で北村は書いているが、「中ぶらりん」で横浜の港をぶらつき移動するその人は、詩人だけではなく、人間全般でもあった。病によってもたらされる死までの間は猶予期間であり、そのため「手帳に書いた予定の日が/かならず来る/世の中に/これくらい恐ろしいことはない」(99)と書き始められる「31」においては、「でも、それまでには/いろいろと予定があって//やはり厄介な日々はつづく/手帳の白いページが/こわい思いに/つぎつぎとめくられていくだろう」(102)と語られる。「港の人」が北村個人だけでなく「別の人」でもあり得るという意味は、実はやがて来る死を誰ひとり避けることはできないという事実であり、その点で人間は誰であっても自己の死の可能性の裡で日々を生きているということだ。その日々の「厄介」さに気づく程度に応じて、読者各人もまた猶予期間を生き延びる「港の人」の一人になる。「19」におけるよく知られた表現「やっぱり生は/死のやまいなんだよ/つまり/死は健全であって/それが病気になると生になるんだ」(63)にあらわれた認識は、「生」の日々が束の間の仮のものであることを示している。現実の彼の病は人間の「生」に関わる認識、というより再確認(「やっぱり」)に詩人を導いた。だが単に「人間(である自己)は死までの猶予を中ぶらりんの状態で生きる」という認識が問題なのではない。「この世でないみたいなたよりない心持ち」、「からだが浮きあがるような感じ」という表現が肝であるように、「認識」すなわち「観念」の次元ではなく、理屈以前の、或いは理屈以後の感覚・