ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

『和歌一字抄』の注記をめぐって―注記を付す意図―(15)520字抄』の成立下限は仁平四年(十月二十八日、久寿に改元)と考えられ、井上氏は特に同年五月二十八日に出家している右大臣雅定がⅠ(原撰本系統Ⅰ:梅田注)で「右府」、Ⅱ(原撰本系統Ⅱ:梅田注)で「右大臣」となっていることを根拠として示しておられる。奇しくも実能の左大将補任は雅定の出家の後を埋めるものであり、清輔が雅定出家前後の呼称の変化に厳密にこだわったなら、本文の成立は五月二十八日までであり、注記は八月十八日以降に加筆されたことにある。さらに後人の手になることも十二分に考えられ、断定はできない。が、とりあえず61の例からは、本文と詠者名注記の同時成立は可能性が低いという見方ができるのではなかろうか(6 )。蔵中は作者注記について右のように述べ、出典注記に関しては以下のように述べる。この他に『和歌一字抄』には出典注記と呼ばれているものがある。これはⅡに多いが統一した観点で付けられておらず、誰が付けたのかという問題がある。ただⅡ164(『校本』二一六番歌:梅田注)「関白殿蔵人所歌合年号可尋」やⅡ398(『校本』五一四番歌:梅田注)「無名可尋」という注記があるところからすると、撰者自身ではなく、後代の書写者によるものと考えるのが適当ではないだろうか。(傍線原文) (7)こうした検討を経てもなお、注記が清輔の手による可能性が完全に除去されたとは断定できないように思われる。たしかに、作者注記の同時成立の可能性は低いと認められるが、注記を追記することは不自然な事とも思われない。そして、実能の注記はⅡにはなく作者名は「内大臣」とされる。増補本系統書陵部本では「実能公公実男」とあり、諸本間で異同が見られるケースである。一五四番歌の出典注記にある「年号可尋」はたしかに問題が残るが、「関白殿蔵人所歌合年号可尋」とあるうち「年号可尋」を後代の書写者が付したのであれば、「関白殿蔵人所歌合」の注記自体はそれ以前から存していた可能性が考えられる。また蔵中の挙げるⅡ三九八(『校本』五一四番歌)の作者名と作者注記の「無名可尋」はⅡのみに存し、Ⅰは「無」、増補本系統は「無名」で「可尋」はない。蔵中が引用部分の少し前で指摘するように、Ⅰの作者名には明確な誤りも存し、それらの誤りが一次資料から清輔が抜き書く際のミスに起因していると思われる例もあるなど、情報の正確さに関して疑問が多いのは事実である。しかし、妥当ないし少なくとも誤りではないと認められる作者注記も多く、注記の正誤率を基準にしたところで、それが清輔のミスや制作上の混乱が反映したものなのか、それとも後人のさかしらであるかを決定づける要素には必ずしもならない。こうした状況から、出典注記、作者注記の全てを清輔が付した、あるいは全て後人が付したと考えるよりも、一部は清輔の手による注記があり、それに準じて後人が付したものがあるといった複数段階の成立を考えるのが穏当ではないだろうか。だがここでは、清輔の手が一つも入っていないと断定する根拠は存しないことを、指摘しておくに止めたい。原撰本系統でもⅠとⅡとの間に注記の違いがある。Ⅰには作者注記が多く、出典注記はほとんど見えない。原撰本系統諸本の注記を一覧すると左の表1のようになる。これらはすべて注記の位置によって取った。書陵部本の出典注記には『勅撰一字抄』を参照したと思しき記述を含んでおり、右肩に注記が付される場合もあるのだが、基本的にはⅠには出典注記は付されなかったと考えてよい。Ⅱでは作者注記の大半が削られるが、代わりに出典注記が大量に存している。現象だけ見れば後人の増補ないし抄出を疑うに十分であろうが、作者注記に関してはⅠ・Ⅱで共通するものもある。表1三康本(Ⅰ1)谷山本(Ⅰ1)書陵部本(Ⅰ2)内閣文庫本(Ⅱ)作者注記数8482898出典注記数11296(歌会表記含)これらの作者注記は諸本で揺れる。まずは一一三の作者名である。Ⅱでは「頼氏式部大輔」、Ⅰでは三康本と書陵部本「中原頼長式部太輔」、谷山本「頼長