ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL(10)525列伝五十六陳蕃伝)。(二六)馬援から始まる、外戚が自らの軍事力に羌族など夷狄を編入する政策については、渡邉義浩「後漢の羌・鮮卑政策と董卓」(『三国志研究』一〇、二〇一五年)を参照。(二七)後漢末、遼西烏桓の丘力居、上谷烏桓の難楼は王を自称し、また、遼東属国烏桓の蘇僕延は峭王、右北平烏桓の烏延は汗魯王と自称していた。中山太守であった張純は、亡命して丘力居の配下に入ると、自ら弥天安定王と号し、三郡烏桓の総指揮者となり、青・徐・幽・冀の四州を攻撃した(『後漢書』列伝七十九南匈奴伝)。こうした張純のあり方は、涼州において韓遂や馬騰が羌族を糾合したことに似ており、漢民族が文化的格差を利用して異民族の指導者になっていく事例と考えられる。(二八)中平四年、前中山太守張純反畔、遂率鮮卑寇辺郡。霊帝詔発南匈奴兵、配幽州牧劉虞討之。単于遣左賢王将騎詣幽州。国人恐単于発兵無已、五年、右部落与休著各胡白馬銅等十余万人反、攻殺単于(『後漢書』列伝七十九南匈奴伝)。(二九)持至尸逐侯単于於扶羅、中平五年立。国人殺其父者遂畔、共立須卜骨都侯為単于。而於扶羅詣闕自訟。会霊帝崩、天下大乱。単于将数千騎、与白波賊合兵、寇河内諸郡。時民皆保聚、鈔掠無利、而兵遂挫傷。復欲帰国、国人不受、乃止河東。須卜骨都侯為単于一年而死。南庭遂虚其位、以老王行国事(『後漢書』列伝七十九南匈奴伝)。(三〇)建安初、冀州牧袁紹与前将軍公孫?相持不決。?頓遣使詣紹求和親、遂遣兵助撃?、破之。紹矯制賜?頓・難楼・蘇僕延・烏延等、皆以単于印綬(『後漢書』列伝八十烏桓伝)。(三一)袁紹と公孫?の対決、それぞれの政権の特徴については、渡邉義浩「三国政権形成前史―袁紹と公孫?」(『吉田寅先生古稀記念アジア史論集』東京法令出版、一九九七年、『三国政権の構造と「名士」』汲古書院、二〇〇四年に所収)を参照。(三二)後難楼・蘇僕延、率其部衆奉楼班為単于、?頓為王、然?頓猶秉計策。広陽人閻柔、少没烏桓・鮮卑中、為其種人所帰信。柔乃因鮮卑衆、殺烏桓校尉?挙而代之。袁紹因寵慰柔、以安北辺(『後漢書』列伝八十烏桓伝)。(三三)及紹子尚敗、奔?頓。時幽・冀吏人奔烏桓者十万余戸、尚欲憑其兵力、復図中国。会曹操平河北、閻柔率鮮卑・烏桓帰附。操即以柔為校尉。建安十二年、曹操自征烏桓、大破?頓於柳城斬之、首虜二十余万人。袁尚与楼班・烏延等皆走遼東、遼東太守公孫康、並斬送之。其余衆万余落、悉徙居中国云(『後漢書』列伝八十烏桓伝)。(三四)曹操の烏桓征服については、張作耀「曹操征烏桓是域内統一戦争」(『烟台大学学報』哲学社会科学版、一九九九―一、一九九一年)、李大龍「簡論曹操対烏桓的征討及意義」(『史学集刊』二〇〇五―三、二〇〇五年)がある。曹操軍に組み込まれた烏桓については、張晉「探析烏桓三次南遷中的騎兵因素」(『陰山学刊』二八―二、二〇一五年)を参照。(三五)前漢時代の和蕃公主については、佐々木満実「漢代和蕃公主考―「和親」との関係を中心に」(『お茶の水史学』五四、二〇一一年)を参照。