ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

後漢の匈奴・烏桓政策と袁紹(9)526巻二十三霊帝紀建寧五年の条に、「西域三十六国の侍子」とあるように、西域の諸国からも侍史が送られていたことから明らかである。それらの中で匈奴は「九賓」として別格の扱いを受けたと考えてよい。(一五)王者所不臣者三、何也。謂二王之後、妻之父母、夷狄也。……夷狄者、与中国絶域異俗、非中和気所生、非礼義所能化、故不臣也。春秋伝曰、夷狄相誘、君子不疾。尚書大伝曰、正朔所不加、即君子所不臣也(『白虎通』王者不臣)。『白虎通』は、陳立『白虎通疏証』(中華書局、一九九四年)を底本とした。また、『白虎通』の後漢「儒教国家」における意義については、渡邉義浩「後漢儒教の固有性」(『両漢の儒教と政治権力』汲古書院、二〇〇五年、『後漢における「儒教国家」の成立』前掲所収)を参照。(一六)延熹元年、南単于諸部並畔、遂与烏桓・鮮卑寇縁辺九郡。以張奐為北中郎将討之、単于諸部悉降。奐以単于不能統理国事、乃拘之、上立左谷蠡王。桓帝詔曰、春秋大居正。居車児一心向化。何罪而黜。其遣還庭(『後漢書』列伝七十九南匈奴伝)。(一七)こうした教化の結果、『後漢書』列伝七十九南匈奴伝に、「夏、新たに降れる一部の大人たる阿族ら遂に反畔し、呼尤徽を脅して与に倶に去らんと欲す。呼尤徽曰く、「我は老いたり。漢家の恩を受けたれば、寧ろ死すとも相随ふ能はず」と(夏、新降一部大人阿族等遂反畔、脅呼尤徽欲与倶去。呼尤徽曰、我老矣。受漢家恩、寧死不能相随)」とあるように、匈奴の温禺犢王の呼尤徽は、漢家の恩を掲げて、漢への叛乱に加わらないとの意思を表明するに至っている。(一八)護烏桓校尉、ならびに匈奴を統括した使匈奴中郎将については、船木勝馬「烏桓校尉・匈奴中郎将をめぐる諸問題」(『江上波夫教授古稀記念論集』歴史編、山川出版社、一九七七年)を参照。なお、久保靖彦「後漢初頭の烏桓について―護烏桓校尉に関する一考察」(『史苑』二四―一、一九六三年)、林幹「両漢時期〝護烏桓校尉?略考」(『内蒙古社会科学』一九八七―一、一九八七年)、何天朝「両漢皇朝解決北方民族事務的統治機構―〝護烏桓校尉?」(『内蒙古師大学報』漢文哲学社会科学版、一九八七―一、一九八七年)もある。また、烏桓の南下については、李莎「論両漢時期烏桓・鮮卑南遷的原因及対漢匈奴関係的影響」(『咸陽師範学院学報』二七―三、二〇一二年)を参照。(一九)是時四夷朝賀、絡駅而至。天子乃命大会労饗、賜以珍宝。烏桓或願留宿衛。於是封其渠帥為侯王・君長者八十一人、皆居塞内、布於縁辺諸郡。令招来種人、給其衣食、遂為漢偵候、助撃匈奴・鮮卑(『後漢書』列伝八十烏桓伝)。なお、『後漢書』烏桓伝と『三国志』烏桓伝とを比較することで、それぞれの資料の偏向を指摘する吉本道雅「烏桓史研究序説」(『京都大学文学部研究紀要』四九、二〇一〇年)には重要な指摘が多い。(二〇)川本良昭「三国期段階における烏桓・鮮卑について―交流と変容の観点から見た」(『国立歴史民俗博物館研究報告』五一、二〇〇九年)。(二一)以上、『後漢書』列伝八十烏桓伝。また、趙紅梅「烏桓朝貢東漢王朝探微」(『社会科学輯刊』二〇一一―六、二〇一一年)は、烏桓の後漢への朝貢をその従属性などにより三期に分類している。すなわち、朝貢活動が遼西・遼東烏桓を中心としていた光武帝の建武二十五(四九)年から明帝の永平十六(七三)年、降伏を乞うことが中心となる安帝の永初三(一〇九)年から桓帝の延熹九(一六六)年、三郡烏桓が朝貢の中心となる中平五(一八八)年から建安十二(二〇七)年の三期である。また、王慶献「烏桓鮮卑勢力消長」(『内蒙古大学学報』哲学社会科学版、一九九一―四、一九九一年)も参照。(二二)〔伝〕所見異辞、所聞異辞、所伝聞異辞。〔注〕……於①所伝聞之世、見治起於①衰乱之中、用心尚??、故①内其国而外諸夏。……於②所聞之世、見治②升平、②内諸夏而外夷狄。……至③所見之世、著治③大平、③夷狄進至於爵、天下遠近・小大若一(『春秋公羊経伝解詁』隠公元年)。(二三)田中麻紗巳「『春秋公羊解詁』の「太平」について」(『人文論叢』三六、一九八八年、『後漢思想の探究』研文出版、二〇〇三年に所収)は、何休の「大平」について、中国国内の治世である狭義の太平を考え、さらにこれを展開した理想的な広義の太平をも描こうとした、としている。(二四)党錮の禁に関しては、渡邉義浩「後漢時代の党錮について」(『史峯』六、一九九一年、『後漢国家の支配と儒教』雄山閣出版、一九九五年に所収)を参照。(二五)時零陵・桂陽山賊為害、公卿議遣討之。……(陳蕃)曰、昔高祖創業、万邦息肩、撫養百姓、同之赤子。今二郡之民、亦陛下之赤子也。致令赤子為害、豈非所在貪虐、使其然乎。宜厳勅三府、隠覈牧・守・令・長。其有在政失和、侵暴百姓者、即便挙奏、更選清賢奉公之人、能班宣法令情在愛恵者、可不労王師、而羣賊弭息矣(『後漢書』