ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

後漢の匈奴・烏桓政策と袁紹(7)528之を破る。紹制と矯りて?頓・難楼・蘇僕延・烏延らに賜ふに、皆単于の印綬を以てす(三〇)。袁紹と公孫?との対峙中(三一)、王を自称していた丘力居の子である楼班が年少であることに乗じて、烏桓の実権を握った従子の?頓は、自らの地位を確立するため、袁紹に協力して公孫?を撃つことを申し出た。袁紹は、朝廷の「制」(命令)と偽って、?頓・難楼・蘇僕延・烏延らに単于の称号と印綬を附与する。匈奴の南単于の不在をよいことに、その地位を烏桓に与えたのである。袁紹が、後漢の体制内異民族政策を継承していることを理解できる。ただし、ここで袁紹は、単于の地位を?頓一人に与えていない。?頓は、独裁的な権力を確立できてはいなかったと考えてよい。また、袁紹も、烏桓の権力者が一人になることを望まなかった。このため、烏桓の内部では混乱が続いた。後に難楼・蘇僕延、其の部衆を率ゐて楼班を奉じて単于と為し、?頓を王と為すも、然れども?頓猶ほ計策を秉る。広陽の人たる閻柔、少くして烏桓・鮮卑の中に没し、其の種人の帰信する所と為る。柔乃ち鮮卑の衆に因り、烏桓校尉の?挙を殺して之に代はる。袁紹因りて柔を寵慰して、以て北辺を安ん(三二)ず。?頓と同様、袁紹から単于の地位を与えられていた難楼・蘇僕延は、丘力居の子である楼班を単于に立てるため、政変を敢行した。しかし、?頓をも王の地位に留めたように、楼班を頂点とする権力もまた確立していなかった。そうした中、若い時に捕らえられ、烏桓と鮮卑のもとで成長した漢人の閻柔は、鮮卑部族の力を借りて、護烏桓校尉の?挙を殺し、自ら護烏桓校尉に就いた。こうした混乱した状況に際して、袁紹は、閻柔をも懐柔して、烏桓との関係を安定化させた。これにより、袁紹は全力を挙げて南下することができた。しかし、袁紹は、建安五(二〇〇)年、官渡の戦いで曹操に敗れ、建安七(二〇二)年、後継者を定めないうちに死去する。このため、袁紹の長子である袁譚は、三男の袁尚と対立し、曹操の離間策もあって、両者は武力で対立する。曹操の介入に敗れた袁尚が、二男の袁熙とともに逃げ込んだ先は、烏桓の?頓のもとであった。紹の子たる尚の敗るるに及び、?頓に奔る。時に幽・冀の吏人の烏桓に奔る者は十万余戸、尚は其の兵力に憑り、復た中国を図らんと欲す。曹操の河北を平ぐるに会たり、閻柔は鮮卑・烏桓を率ゐて帰附す。操即ち柔を以て校尉と為す。建安十二年、曹操自ら烏桓を征し、大いに?頓を柳城に破り之を斬り、首虜は二十余万人。袁尚楼班・烏延らと与に皆遼東に走のがるるも、遼東太守の公孫康、並みな斬りて之を送る。其の余衆たる万余落、悉く中国に徙居すとしか云ふ(三三)。?頓は、袁尚・袁熙を助けて曹操と戦った。しかし、烏桓の事情を熟知している閻柔が曹操に帰順したこともあって、柳城の戦いに敗れて斬られた。代わって、楼班・烏延らが袁尚・袁熙と共に遼東まで逃れたものの、遼東太守の公孫康に斬られた。残余の烏桓は、中国国内に強制移住させられ、その精強な騎兵は、曹操軍に組み込まれた(三四)。後漢の匈奴・烏桓政策を継承した袁紹の勢力もまた、ここに滅亡したのである。おわりに前漢期より和蕃公主を降嫁させるなど(三五)、後漢にとって、最も近しい夷狄であった匈奴は、後漢の祭祀体系にも組み込まれた体制内異民族であった。後漢は、南匈奴の単于を保護・統制し、匈奴もまた後漢を守るために戦った。もちろん、一時的には離反することもあったが、黄巾の乱を契機とする後漢の危機に際して、南単于は、漢の救援のために於扶羅を派遣した。しかし、混乱を極めていた後漢は、於扶羅に守ってもらうことも、於扶羅を守ることもできなかった。於扶羅は、曹操に降服し、南匈奴は漢と命運を共にする。こうした後漢の匈奴、さらには烏桓に対する後漢の体制内異民族政策を規定したものは『春秋公羊伝』であり、その注釈を集大成した何休は、陳蕃の故吏であった。政治的に陳蕃の後継者である袁紹は、この異民族政策を継承する。このため、袁紹は、烏桓の協力を得て公孫?を打倒できたが、曹操には官渡の戦いで敗れる。それでも、烏桓は、袁紹の二子を助けて、曹操と戦いを続けていく。体制内異民族であった匈奴と烏桓は、最後まで自らの保護