ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL(6)529政策に対抗する中で、主として匈奴や烏桓に施行されていた後漢に伝統的な寛容を旨とする異民族政策を対置した。それによって、自らの政治の方向性を示したと考えてよい。竇武は、梁冀と同じく外戚でありながら、宦官と対抗するために陳蕃と組んだ。そして、竇武と陳蕃が第二次党錮の禁の際、宦官に殺害された後に、宦官の打倒を目指した者が、同じく外戚の何進であり、それを支えた者が袁紹であった。したがって、袁紹は、陳蕃の異民族政策を継承すべき政治的立場にある。それは、夷狄を体制内異民族として位置づけ、保護をする代わりにその軍事力を利用するという後漢の伝統的な異民族政策であった。四、於扶羅と?頓光武帝以来の体制内異民族として優遇されてきた南匈奴は、後漢における経典解釈の展開の中で形成されていく夷狄を許容する異民族観をも受けながら、黄巾の乱に際して後漢を援助する。単于の羌渠は、中平中に右賢王の於扶羅の率いる援兵を派遣して、後漢を支援した(『三国志』巻一武帝紀注引『魏書』)。中平四(一八七)年になって、前中山太守の張純が烏桓・鮮卑とともに叛乱を起こす(二七)と、ふたたび単于の羌渠は、霊帝の詔を受けて幽州牧の劉虞の指揮下に入るため、左賢王に兵力を授けて援軍とする(『後漢書』列伝七十九南匈奴伝)。しかし、その負担は大きかった。中平四年、前の中山太守たる張純反畔し、遂に鮮卑を率ゐて辺郡を寇す。霊帝詔して南匈奴の兵を発し、幽州牧の劉虞に配して之を討たしむ。単于左賢王を遣はして騎を将ゐて幽州に詣らしむ。国人単于の兵を発して已むこと無きを恐れ、五年、右部の落は休著各胡の白馬銅ら十余万人と与に反し、攻めて単于を殺す(二八)。霊帝の期待に単于は応え続けようとした。しかし、匈奴の国人たちは、度重なる徴兵に耐えきれず、中平五(一八七)年、右部の落が単于の羌渠を殺害するに至る。これを受けて、後漢を支援してきた於扶羅が単于の位に即くが、羌渠を殺した国人たちは、別に須卜骨都侯を共立して単于に立てた。本国の国人たちから単于の地位を認められなかった於扶羅は、後漢を頼る。持至尸逐侯単于の於扶羅、中平五年に立つ。国人の其の父を殺せし者遂に畔き、共に須卜骨都侯を立てて単于と為す。而して於扶羅闕に詣りて自ら訟へんとす。会々霊帝崩じ、天下大いに乱る。単于数千騎を将ゐ、白波賊と兵を合して、河内の諸郡に寇す。時に民皆保聚し、鈔掠するも利無く、而して兵遂に挫傷す。復た国に帰らんと欲するも、国人受けざれば、乃ち河東に止まる。須卜骨都侯は単于と為ること一年にして死す。南庭遂に其の位を虚しくし、老王を以て国事を行はしむ(二九)。於扶羅は、自らの即位が国人に認められなかったことを後漢に訴え、後漢の力を借りて、自らの地位を守ろうとした。しかし、霊帝の崩御もあって、後漢は於扶羅を支援することができなかった。戻る場所を失っていた於扶羅は、河東郡に止まる。一方、国人の支持を得ていた須卜骨都侯が一年で卒すると、以後、南匈奴は単于を立てることができず、事実上ここに滅亡する。漢と命運を共にしたのである。こののち、於扶羅は、反董卓連合軍が結成されると、張楊と共に袁紹に属した。袁紹こそ、後漢の体制内異民族政策の継承者であったためであろう。しかし、袁紹は、於扶羅の単于の地位を保証することはなかった。初平元(一九〇)年より、袁紹は、幽州牧の劉虞を皇帝に擁立しようとしており(『三国志』巻一武帝紀)、後漢の朝廷より於扶羅に単于の地位を引き出すことができなかったのである。初平二(一九一)年、於扶羅は張楊を人質にとって袁紹に背いたが、袁紹配下の麹義に敗れた。初平四(一九三)年には、陳留郡に進出した袁術を黒山賊とともに支援する。皇帝を称する準備をしていた袁術にとって、北方の異民族を象徴する匈奴を勢力下に収めることは、理念的にも重要な意味を持った。しかし、袁術は曹操に敗れ、最終的に於扶羅は曹操に降服する(『後漢書』列伝七十九南匈奴伝)。一方、烏桓は、袁紹に従い続けた。於扶羅の離反に学んだのか、袁紹が烏桓を体制内異民族として積極的に位置づけたためである。建安の初、冀州牧の袁紹、前将軍の公孫?と相持して決せず。?頓使を遣はして紹に詣りて和親を求め、遂に兵を遣はして助けて?を撃ち、