ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

後漢の匈奴・烏桓政策と袁紹(5)530界観において必須とされる体制内異民族と位置づけられ、一時的に叛くこともあるにせよ、多くは漢のために戦い続けた異民族なのであった。三、陛下の赤子こうした匈奴と烏桓の漢との関係を背景に、漢の異民族観も変容していく。章帝期に行われた白虎観会議の議論をまとめた『白虎通』では、匈奴をはじめとする夷狄は、「中和の気の生ずる所」ではないとされていた。これに対して、桓帝期に党錮の禁に遭い、漢の再興を信じながら、『春秋公羊伝』に注を付けた何休は、「夷狄進みて爵に至る」ことにより、「大平」が齎されると主張する。『春秋公羊経伝解詁』隠公元年において、何休は次のように注をつけている。〔傳〕見る所辞を異にし、聞く所辞を異にし、伝へ聞く所辞を異にす。〔注〕……①傳へ聞く所の世に於ては、治は①衰乱の中に起こるを見はし、心を用ふること尚ほ?赦なり、故に①其の国を内にして諸夏を外にす。……②聞く所の世に於ては、治は②升平に見はれ、②諸夏を内にして夷狄を外にす。……③見る所の世に至りては、治は③大平に著はれ、③夷狄進みて爵に至り、天下の遠近・小大は一の若(二二)し。①衰乱(所伝)の世では、自国以外は華夏の諸国といえども外にするが、②升平(所聞)の世では、夷狄は外にしても華夏諸国には自他の区別を設けない。そして、③大平(所見)の世では、夷狄は進んで爵に至り、華夏と夷狄の区別も消滅して、天下はすべて一同に帰するというのであ(二三)る。こうした何休注の夷狄との共存を目指す発想は、経学的には穀梁伝の影響として説明し得る。『穀梁廃疾』を著し、公羊の優位を主張した何休であるが、経典解釈に現れた夷狄観には穀梁伝の影響を色濃くみることができるのである。しかし、何休が生きた後漢の現実は、「大平」とは程遠い有り様にあった。宦官の専横により国政は紊乱し、それを批判した李膺たちは、延熹九(一六六)年、党人として禁錮された。第一次党錮の禁である。何休が党人の領袖である陳蕃の辟召を受け、現実政治の改革を目指したのは、桓帝の崩御を機に建寧元(一六八)年に、外戚の竇武が陳蕃を太傅に抜擢したためであった。ところが、翌建寧二(一六九)年、竇武と陳蕃が宦官の誅滅に失敗すると、何休は第二次党錮の禁に連坐し(二四)た。『春秋公羊経伝解詁』は、こののち党錮を解かれる光和二(一七九)年までの間に著されたものとされる(『後漢書』列伝六十九下儒林何休伝)。したがって、何休の夷狄観には、党人の領袖であった陳蕃の異民族政策の影響もあった。陳蕃は、異民族について、次のように上奏している。時に零陵・桂陽の山賊害を為し、公卿議して遣はして之を討たしめんとす。……(陳蕃)曰く、「昔高祖の創業するや、万邦は肩を息ませ、百姓を撫養し、之を赤子に同じくす。今二郡の民も、亦た陛下の赤子なり。赤子をして害を為さしむるを致すは、豈に所在貪虐にして、其れをして然せしむるには非ずや。宜しく厳しく三府に勅し、牧・守・令・長を隠覈せしむべし。其の政に在りて和を失ひ、百姓を侵暴する者有らば、即ち便ちに挙奏し、更めて清賢奉公の人にして、能く法令を班宣するに情は愛恵に在る者を選ばば、王師を労はさずして、而して羣賊は弭息す可し」(二五)と。陳蕃は夷狄の「山賊」もまた、「陛下の赤子」であるとして、その討伐に反対している。こうした陳蕃の夷狄認識は、夷狄もまた「天地の生む所」であるとする何休の夷狄認識と相通じる。陳蕃の場合には、さらに進んで、「陛下の赤子」すなわち、夷狄も中国を構成する一要素と認識しているのである。何休は、経典解釈の整合性を保つ必要があった。ゆえに、陳蕃ほどに強く夷狄を「陛下の赤子」と位置づけられなかった。「大平」の世に至れば、「夷狄進みて爵に至る」と述べることが、強い攘夷思想を含む公羊伝の経典解釈としては限界であったのだろう。これに対して、陳蕃の思想は、自ら国政に関与する中で抱いた夷狄観である。陳蕃が夷狄を「陛下の赤子」と上奏した際に、国政を掌握していた者は、後漢の外戚の中で最も専横をきわめた梁冀であった(『後漢書』列伝五十六陳蕃伝)。梁冀を始めとする後漢の外戚は、羌族などの夷狄を自らの軍に編入して軍事力を教化する一方で、奴隷のように搾取する異民族政策を遂行してい(二六)た。陳蕃は、羌族などの夷狄を虐げていく、外戚に多く見られる異民族