ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL(4)531列伝七十九南匈奴伝)。後漢は、匈奴の保護者として、鮮卑から匈奴を守っているのである。あるいは、桓帝は、延熹元(一五八)年に、叛乱を起こした伊陵尸逐就単于の居車兒を許し、その地位を保証している。延熹元年、南単于の諸部並びに畔き、遂に烏桓・鮮卑と与に縁辺の九郡に寇す。張奐を以て北中郎将と為して之を討たしめ、単于の諸部悉く降る。奐単于は国事を統理すること能はざるを以て、乃ち之を拘へ、上りて左谷蠡王を立てんとす。桓帝詔して曰く、「春秋は正しきに居るを大とす。居車児は一心に化に向かふ。何の罪ありてか黜けん。其れ遣りて庭に還せ(一六)」と。匈奴の諸部の叛乱を平定した張奐は、その原因を国事を統制できない単于に求め、これを拘束して左谷蠡王を擁立しようとした。ところが、桓帝は「春秋の義」を掲げて、単于更迭を防いだ。桓帝が掲げる「春秋の義」は、『春秋公羊伝』隠公三年の、「君子は正しきに居るを大とす(君子大居正)」を典拠とする。恵棟の『後漢書補注』は、居車兒が叛乱に加わらず、一心に漢の教化に向かっていたことを桓帝が「正しきに居る」という春秋の義によって評価した、と解釈する。首肯し得る見解である。桓帝は、『春秋公羊伝』に基づき、単于を保護して、匈奴が漢の教化の下に正しく居ることを目指したのであっ(一七)た。こうして体制内異民族の匈奴は、後漢に従い続けたのである。また、後漢は、匈奴よりも劣る待遇ではあるが、烏桓にも体制内異民族としての地位を与えていた。もともと烏桓は、前漢武帝の匈奴との戦いの際より、漢のために匈奴の動静を探り、「大人」が歳ごとに朝見する体制内異民族で、前漢は護烏桓校尉を置い(一八)て、これを保護していた。王莽の対外政策を機に、烏桓も中国に侵攻していたが、後漢を建国した光武帝は、精鋭の烏桓突騎(幽州突騎)を擁する漁陽郡と上谷郡を軍事的な基盤とした。後世、「雲台二十八将」と呼ばれる功臣に位置づけられた呉漢・蓋延・王梁(漁陽出身)、景丹・寇恂・耿?(上谷出身)は、光武帝の騎兵の主力であった。天下を平定した光武帝は、長城外の烏桓を服属させるため、伏波将軍の馬援を送り、三千の騎兵を率いさせ、五原関から出撃させたが成果はなかった。それでも、光武帝の建武二十五(四九)年、烏桓の「大人」?旦ら九百二十二人が、闕に至って朝貢する。そのとき、夷狄の中で烏桓は特別視されたことが、次のように伝えられている。是の時四夷朝賀し、絡駅として至る。天子乃ち命じて大いに会して労ひ饗し、賜ふに珍宝を以てす。烏桓或ひは留まりて宿衛せんことを願ふ。是に於て其の渠帥を封じて侯王・君長と為す者八十一人、皆塞内に居り、縁辺の諸郡に布く。種人を招来し、其の衣食を給せしめ、遂に漢の偵候と為り、匈奴・鮮卑を撃つことを助(一九)く。烏桓は、数多の朝貢した夷狄の中で、例外的に「宿衛」を願い、漢から「侯王・君長」に八十一名の多きが封建され、「漢の偵候」となって「匈奴・鮮卑を撃つことを助」けた。そして、南匈奴と同様、このとき烏桓は中国内に移住を許された。遼東郡属国・遼西郡・右北平郡・漁陽郡・広陽郡・上谷郡・代郡・雁門郡・太原郡・朔方郡に分居し、また長城外の烏桓にも移住するよう働きかけさせた。烏桓が、匈奴よりもさらに従属性の強い体制内異民族であったことを理解できる。川本良昭(二〇)は、長城という巨大な建造物を通じて分断されていた中国と胡が、それを乗り越える形で交流を顕在化させる始まりとして、これを注目すべき現象としている。もちろん烏桓が、こののち漢に対して全く叛かなかったわけではない。明帝の永平年間(五八?七五年)には、漁陽烏桓の大人の欽志賁が部族を糾合して背き、鮮卑も後漢へ攻撃を始めた。遼東太守の祭?は、欽志賁を暗殺し、これを平定している。また、安帝期には、漁陽・右北平・雁門の烏桓の率衆王である無何らが、鮮卑や匈奴と連合して、代郡・上谷郡・?郡・五原郡を略奪した。安帝は、大司農の何熙に車騎将軍を兼任させ、近衛兵を旗下につけて、国境地帯の七つの郡と黎陽営の兵士、あわせて二万の軍で攻撃し、撃破した。これ以後、烏桓は、ふたたび後漢に接近したので、大人の戎末?を都尉とした。順帝期に戎末?は、配下の咄帰や去延らを率い、護烏桓校尉の耿曄に従って鮮卑を攻めて功績をあげ、それぞれ率衆王の位を与えられている(二一)。このように、匈奴と烏桓は、後漢「儒教国家」が形成する中華と夷狄の世