ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

後漢の匈奴・烏桓政策と袁紹(3)532は、「臣らは漢の地に生長し、口を開きて食を仰ぎ、歳時の賞賜は、動ややもすれば輒ち億万、垂拱して枕に安んずと雖も、報効の地無きことを慙づ(臣等生長漢地、開口仰食、歳時賞賜、動輒億万、雖垂拱安枕、慙無報効之地)」と述べ、漢のために戦うことを誓っている(『後漢書』列伝七十九南匈奴伝)。後漢が南匈奴を体制内に組み込み、その協力を引き出していることを理解できよう。そうした物理的な戦闘力に加えて、南匈奴は理念的にも、後漢「儒教国家(一一)」の体制を支えていた。儒教では、天子が世界の支配者であることを表現するため、天子に朝貢する夷狄を必要とする。強力な夷狄が遠方から朝貢すればするほど、天子の徳は引き立つ。「儒教国家」は、その体制内に夷狄を必要としていたのである。南単于は、「儒教国家」の儀禮において、次のような役割を果たしていた。東都の儀、百官・四姓親家の婦女・公主・諸王の大夫・外国の朝者侍子・郡国の計吏陵に会す。晝漏上水、大鴻臚九賓を設け、寢殿の前に隨立せしむ(一二)。明帝が光武帝の原陵の上で始めた墓祭である上陵の儀禮において、陵に会する者のうち、「四姓親家の婦女」は、外戚の樊・郭・陰・馬氏の四姓とその親族の婦女であり、「公主」は皇帝の娘、「諸王の大夫」は、正月に璧を奉じて皇帝に拝賀する王の使者である。また、「郡国の計吏」は、毎年郡国から上京し、会計報告をするとともに、貢献物を上納して、中央と地方郡国との間の貢納・従属関係を更新する役割を果たしていた(一三)。「外国の朝者侍子」は、かれらと並んで、上陵の儀禮に参加している。しかも、「九賓」について、薛綜は、「九賓とは、王・侯・公・卿・二千石・六百石より下は郎・吏・匈奴の侍子に及ぶまで、凡そ九等を謂ふ」と述べ、「外国の朝者侍子」の中で、「匈奴の侍子」が特別に「九賓」として優遇されていたことが分かる(一四)。夷狄の中における匈奴の理念的な重要性が理解できよう。このように、南匈奴は、後漢「儒教国家」において、体制内異民族として欠くことのできない地位を確立していたのである。こうした匈奴のあり方は、後漢「儒教国家」の経義を定めた『白虎通』における夷狄の定義にも、次のように反映している。王者の臣とせざる所の者は三、何ぞや。二王の後、妻の父母、夷狄を謂ふなり。……夷狄なる者は、中国と域を絶ち俗を異にし、中和の気の生ずる所に非ず、禮義の能く化する所に非ず、故に臣とせざるなり。春秋伝に曰く、「夷狄相誘いざなはば、君子疾にくまず」と。尚書大伝に曰く、「正朔の加へざる所、即ち君子の臣とせざる所なり(一五)」と。後漢「儒教国家」において夷狄は、殷と周の後裔である「二王の後」、外戚である「妻の父母」と並んで、王者が「臣とせざるもの」と位置づけられている。理念的には「不臣」の地位に置かれているのである。ただし、その理由は、夷狄が「中和の気の生ずる所」ではないことに置かれている。こうした生まれが異なるとする夷狄観は、『春秋左氏伝』のそれである(注(四)所掲渡邉論文を参照)。『白虎通』の夷狄の規定は、穀梁伝が述べるような、華夷混一の理想社会を求めるものではなかったのである。こうした蔑視も影響したのであろう。南匈奴の内部で混乱が起こると、南匈奴が漢に叛くこともあった。順帝の永和五(一四〇)年には、南匈奴の左部の句龍王である吾斯が、車紐らと共に叛いている。度遼将軍の馬続は、国境部隊および烏桓・鮮卑・羌胡の計二万余人を動員し、これを撃破したが、吾斯の抵抗は続いた。これに際して、順帝は、叛乱には係わっていなかったにも拘らず、去特若尸逐就単于を詰問する。これを苦にした単于は、のちに自殺した。このため吾斯は、車紐を単于に立て、後漢に侵入したが、使匈奴中郎将の張耽は、単于の車紐を馬邑の戦いに大破し、後任の馬寔が刺客により吾斯を殺して、ようやく叛乱は平定された(『後漢書』列伝七十九南匈奴伝)。ここでは、順帝が、句龍王の吾斯が叛いた責任を単于に追究していることに注目したい。漢は、単于を通じて、匈奴が漢に従うことを強制させていたのである。むろん、かかる統制は、叛かない場合には、匈奴への保護政策となって現れる。同じく順帝のとき、朔方より以西の障塞の整備不良により、鮮卑が南侵して匈奴の漸将王を殺したことがあった。単于がこれを憂い恐れ、障塞の修復を求めると、順帝は匈奴を保護するために、障塞を修復している(『後漢書』