ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL(2)533建武二十四(四八)年になって、??日逐王の比が、祖父の呼韓邪単于の称号を継いだことを漢の五原塞に伝え、翌建武二十五(四九)年に、「称臣」して「旧約」を修めた。大飢饉の中、匈奴は南北に分裂し、蒲奴単于(比の独立後は、北単于)から、南辺八部の「大人」に推戴された比が、醢落尸逐?単于(最初の南単于)となって独立し、呼韓邪単于と称して、後漢との和親を求めて来たのである。南単于復た使を遣はして闕に詣らしめ、藩を奉じて①臣と称し、国の珍宝を献じ、使者の監護を求め、侍子を遣はし、②旧約を修む(六)。②「旧約」とは、ここでは宣帝の故事を指す。したがって、南単于の比は、自ら謙遜して①「称臣」すれば、祖父の呼韓邪単于と同様、客禮により「不臣」として待遇されると期待したと考えてよい。ところが、光武帝がこれを集議に附すと、群臣は「夷狄の情は偽にして知り難く、許す可からず(夷狄情偽難知、不可許)」(『後漢書』列伝九耿?伝附耿国伝)として、南単于の申し出を拒否すべしとする意見が多かった。そうした中、ひとり耿国だけが宣帝の故事にならって南単于の申し出を受けることを主張し、光武帝はこれに従ったと記録される(七)。しかし、外交の実態は、宣帝の故事とは異なるものであった。(建武)二十六年、中郎将の段?・副校尉の王郁を遣はし、南単于に使ひし其の庭を立てしむ。五原の西部塞を去ること八十里なり。単于乃ち延まねきて使者を迎ふ。使者曰く、「単于当に①伏拝して詔を受くべし」と。単于顧望すること頃しばらく有りて、乃ち伏して②臣と称す。拝し訖はりて、訳をして使者に曉さしめて曰く、「単于新たに立ち、誠に左右に慙づ。願はくは使者衆中にて相屈折せしむること無かれ」と。骨都侯ら見て、皆泣なみだ下る。?ら反命するや、詔して乃ち南単于の入りて雲中に居るを聴す(八)。光武帝の使者となった中郎将の段?は、南単于に対して、その庭を五原の西部塞より八十里の地に立てさせる一方で、単于に①「伏拝して詔を受」けるよう要求する。南単于に臣禮を取らせようとしたのである。南単于は少しためらったのち、やむなく②「臣と称し」て光武帝の詔を受けた。穀梁伝に基づく宣帝の故事とは異なり、公羊伝の厳しい夷狄観が表出する後漢の外交政策の結果、匈奴は臣従を余儀なくされた。匈奴を保護・監視する使匈奴中郎将が置かれたのも、この時である(九)。北匈奴との対決を控える南匈奴は、臣従してでも、後漢からの協力を得る必要があったのである。こうして協力し得た後漢と南匈奴に攻撃され、衰退した北匈奴の優留単于は、章和七(八七)年、鮮卑に殺害される。後漢は、永元元(八九)年には、征西大将軍の耿秉と車騎将軍の竇憲に北匈奴を討伐させ、北単于を稽落山の戦いで大破する。さらに、永元二(九〇)年、南匈奴の休蘭尸逐侯?単于と共に、使匈奴中郎将の耿譚が北単于を襲撃し、永元三(九一)年、右校尉の耿?の遠征により北単于を敗走させる(『後漢書』列伝七十九南匈奴伝)。こうして、北匈奴は中華圏から姿を消したのである。二、体制内異民族漢に臣従した南匈奴は、歳ごとに使者を派遣して、人質の意味も持つ「侍子」を送って入朝させた。中華と夷狄として表現される儒教の世界観は、朝貢に来る異民族が中華の周縁に存在することを必須としていたためである。単于歳尽に輒ち使を遣はして奏を奉じ、侍子を送りて入朝せしめ、中郎将の従事一人、将領して闕に詣る。漢は謁者を遣はして、前の侍子を送りて、単于の庭に還らしめ、道路に交会す。元正に朝賀し、陵廟を拜祠し畢はるや、漢乃ち単于の使を遣やり、謁者をして将送せしむ。綵繒千匹・錦四端・金十斤・太官の御食の醤、及び橙橘・龍眼・?支を賜ひ、単于の母、及び諸々の閼氏・単于の子、及び左右賢王・左右谷蠡王・骨都侯の功善有る者に、繒綵を賜ふこと合して万匹。歳ごとに以て常と為す(一〇)。南単于が毎年、使者を派遣し、上奏文とともに侍子を送ると、漢は謁者に先の侍子を送り返させる。元旦に朝賀し、陵廟を拝した後には、単于に使者を出し、きわめて多くの回賜を与えることが、「歳ごとに以て常と」されていたという。こうした後漢の待遇に対して、比の子である休蘭尸逐侯?単于の屯屠何