ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

後漢の匈奴・烏桓政策と袁紹(1)534はじめに後漢末、地球規模で約三度低下した平均気温(一)は、中国の生産力の中心を黄河流域から長江流域へと移していく一方で、北方・西方の異民族の中国への侵入をもたらした。北方・西方の異民族は、やがて四世紀には五胡十六国時代の諸国家を形成していく。北方・西方の異民族のみならず、朝鮮・日本といった東アジア諸国家の本格的な始動も同じく四世紀からであることは、三国・西晉という三世紀の中国国家が、漢四百年の伝統を受けながら、異民族に対する様々な政策を展開していった一つの証であろう。黄巾の乱を契機に、後漢の衰退が誰の目にも明らかになっていたとき、後漢を守ろうとする異民族があった。右賢王の於扶羅に率いられた匈奴である(二)。また、官渡の戦に敗れた袁紹が卒し、追い詰められた袁紹の二子を守ろうとする異民族もあった。袁尚・袁熙を助けて曹操と戦った烏桓である(三)。匈奴と烏桓は、なぜ後漢を、そして袁氏を守ろうとしたのであろうか。本稿は、その理由を後漢の匈奴・烏桓政策から解明し、さらに袁紹の異民族政策との関わりを論ずるものである。一、不臣から臣従へ前漢武帝のとき、激しく漢と戦った匈奴が、漢に帰順したのは、宣帝の甘露三(前五一)年のことである。それに先立ち、宣帝は、来朝する呼韓邪単于への対応を集議に附していた。集議は、匈奴の単于の位を諸侯王の下に置くべきとする丞相の黄覇・御史大夫の于定国の議と、単于に不臣の禮を加え、位を諸侯王の上に置くべきとする蕭望之の議に分かれた。宣帝は、蕭望之の議を是とし、客禮によって呼韓邪単于を待遇し、その位を諸侯王の上と定めた(『漢書』巻七十八蕭望之伝)。こうして漢は、匈奴と和親を結んだのである。単于を臣下とすべきと説いた黄覇・于定国の議は、『春秋公羊伝』成公十五年の「春秋は、其の国を内として諸夏を外とし、諸夏を内として夷狄を外とす(春秋、内其国而外諸夏、内諸夏而外夷狄)」を論拠とする。これに対して、宣帝期に出現した『春秋穀梁伝』は、華夷混一の理想社会の実現を説いていた。そこで宣帝は、単于来朝の四ヵ月後、蕭望之を司会に石渠閣会議を主宰する。新たな匈奴政策の依拠すべき経典となった穀梁伝を公認するためである。会議の結果は「多く穀梁に従」い、宣帝の意向どおりとなった(『漢書』巻八十八儒林瑕丘江公伝)。ここに漢の華夷思想は、公羊伝の厳しい攘夷思想から穀梁伝の華夷混一へと大きく展開したのである(四)。宣帝以来の匈奴との和親を破壊した者は、王莽である。王莽が漢の外交関係を一新して、夷狄を下に置く政策を展開した理由は、『禮記』曾子問と『春秋公羊伝』隠公元年に基づき構築された「天に二日無く、土に二王無き(天無二日、土無二王)」天下の「一統を大たふと(大一統)」ぶという世界観にある(五)。単于を臣下と位置づけられた匈奴は、中国への侵攻を繰り返し、莽新の崩壊を促す赤眉の乱を惹起する。莽新に代わって後漢が建国された後にも、匈奴の侵攻は続いた。ようやく、後漢の匈奴・烏桓政策と袁紹渡邉義浩WASEDA RILAS JOURNAL NO. 3 (2015. 10)Abstract