ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

マラルメとローデンバックの舞踊思想について-マラメルの書き換えに見られる二人の舞踊観の相違から3.マラルメ(1842-1898)とローデンバック(1855-1898)の交流マラルメとローデンバックのあいだで交わされた書簡は1887年から残されており、1895年~1896年頃に頻度を増すが、2人の初対面は1888年にテオドール・ド・バンヴィル邸でのことだったといわれている(9)。私的には、1889年頃から妻を交えた交流を始め、互いの夕食会に招きあい、92年にローデンバックに息子コンスタンタンが誕生してからはさらに親しさを増し、95年9月にはローデンバックが一家でヴァルヴァン近くのサモアに滞在し、マラルメ家とより密に交流する様が書簡からみてとれる(10)。マラルメにおいて1887年は、エミール・ヴェラーレンによる『ステファヌ・マラルメ詩集』の書評がブリュッセルの「現代芸術」誌(10月30日号)で紹介され、同じくブリュッセルで『詩と散文のアルバム』が刊行された年であった。1888年には、このヴェラーレンの紹介でベルギーの出版者エドモン・ドマンとの交流がはじまり、『エドガー・ポー詩集』をドマン書店より刊行する。1890年にはベルギーの5都市を巡り6回の講演を行い、さらに1891年には『パージュ』がドマン書店より刊行され、ベルギーの文学関係者との親交が密になっていた。一方、ローデンバックは、ガン(ゲント)大学で法学を修めた後、法律事務所研修のため1878年10月から1年間パリに滞在し、作家や詩人たちとの交わりに生き甲斐を見いだすものの、ガンに戻り法律の仕事につく(11)。しかし、1885年にエドモン・ピカールに招かれ、ブリュッセルの法律事務所に移り状況が変化する。というのも、エドモン・ピカールは、当時ベルギーの法曹界の権力者であると同時に「現代芸術」誌の主幹であったからであり、ローデンバックはこの雑誌に協力するようになる(12)。そして1888年1月に本格的に文学活動を再開するためローデンバックはパリに移住する。このとき、マラルメの住むローマ街と鉄道をへだてた向かいに位置するブルソー街に居を構えたこと(13)、97年にグノー街(14)へ転居するさいにも17区にこだわっていたことなどから(15)、ローデンバックはマラルメとの公私にわたるかかわりに熱意をもっていたことがうかがえる。1888年8月にアンナ=マリア・ウルバンと結婚した後、同年9月に『フィガロ』紙への旅行記執筆を皮切りにローデンバックは『流謫の芸術』(1889)、『沈黙の支配』(1891)、『死都ブリュージュ』(1892)、『閉ざされた生命』(1896)などを発表し、93年には戯曲にも手を染め、コメディ・フランセーズでの『ヴェール(16)』上演で成功をおさめてゆく(17)。ローデンバックは、作品が刊行されるたびにマラルメに献呈し、マラルメが必ず感想を述べているのは書簡にあるとおりである(18)。マラルメとローデンバック間の書簡には素朴で長閑な表現が多く、心温まる交友に留まるものと捉えられがちであるが、上にみてきたとおりローデンバックにとっては人生を賭けた真剣なものであったと考えられるゆえ、この交流は、2人の文学思想上の問題を解明するものとして、適宜ふり返る必要があろう。4.マラルメにおけるローデンバックローデンバックがマラルメについて残した詩(19)や文章はいくつかある。その風貌や生活習慣を細かく描き親近感あふれるマラルメ像を紹介した記事(『ジュルナル・ド・ブリュッセル』、1890年2月10日号)を筆頭に、1895年5月25日付『フィガロ』紙特別号などがあるが、なかでも長文の力作といえるものは、1895年7月号『ルヴュ・フランコ=アメリカン』において詩人マラルメを初期作品から最新作に至るまで総合的に論じた記事、そしてマラルメの死の直後に書かれた追悼文(1898年9月13日『フィガロ』紙)の二点であり、とくに後者の追悼文において、ローデンバックが回想するマラルメのしぐさを「踊り子のようであった」と形容している点は、舞踊をテーマとする本稿では、とくに注記しておきたいところである(20)。一方、マラルメは『ディヴァガシオン』において「小さな円形肖像と全身像いくつか」の題のもとに、交流のあった詩人、画家、小説家たち11名に対して友情の証しとして、マラルメ的な視点でもって彼らの精神を描写した肖像作品を執筆編集している。「円形肖像」と「全身像」とはその言葉のとおり、小さな胸像と大きな全身像を指し示す。「円形肖像」は「エドガー・ポー」、「ホイスラー」、「エドゥアール・マネ」等に対応し、短く要所を捉えた姿で描かれ、「ヴィリエ・ド・リラダン」、「ベックフォード」、55