ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

マラルメとローデンバックの舞踊思想について-マラメルの書き換えに見られる二人の舞踊観の相違からの「踊り子」と題する裸婦の彫刻が、その美貌ゆえに人気の高かったオペラ座のエトワール、クレオ・ド・メロードに似ていると大評判であったため、踊り子を「裸婦」としてとらえることを批判しようと考えたからである。マラルメにおいて踊り子とは生身の身体をもつ女ではなく、紋章あるいは記号であり、踊りとは身体が舞台上に書く文字、あるいは書くという行為そのものとなると説く。舞台上で展開されるバレエのパ(ステップ)のひとつひとつが何らかのものを指し示すゆえ、踊りは詩を読み解くのと同じ仕方で読まなければならない。このとき観客は、踊りを読むことができた場合に限り、対象の概念の裸形を受け取ることができる。マラルメが舞踊論において「裸形(nudite)」という言葉を多用するのは、それは女性の裸体なのではなく、概念のむき出しのかたちであるからなのだ。こうしたマラルメの舞踊観に感化されてローデンバックは、マラルメの評論文を後ろ盾として堂々と批判文を展開してゆく。マラルメは、自らの舞踊思想が色濃く反映されているローデンバックの舞踊論をうけて、ローデンバックの文章を引用する。これは、先に引用した「〔唯一人、魔術師のように流動的で・・・〕」ではじまる章の冒頭に続く箇所である。「あらゆる霞みがかった装飾でもって舞踊の魅惑を複雑にすることである。そこでは彼女らの身体は、すべてがそこに属してはいるが、しかしそれ[身体]を隠している律動としてのみあらわれる」[ou leur corps n’apparait que comme le rythme d’outout depend mais qui le cache.]。(30)ローデンバックは「踊り子たち」において、踊り子の普遍的な定義づけを行っている。上記の引用は、そのなかでも中心的な一節である。上記の箇所を出典の「踊り子たち」と比較しよう。あらゆる霞みがかった装飾でもって舞踊の魅惑を複雑にすることに心を砕いてきたのだった。そこでは彼女らの身体は、すべてがそこに属している律動としてのみあらわれる。ただし、その律動は自らを隠している[ou leur corps n’apparait quecomme le rythme d’ou tout depend, mais qui se cache]。(31)マラルメはローデンバックの記述から一語、ことわりなしに書き換えて引用するが、その語を含む一文をイタリックにしていることからも、この書き換えが意図的なものであり、かつ、ローデンバックに対する応答であるとして捉えてよいだろう。マラルメは、ローデンバックにおいて「, mais qui secache」と書かれてあるところの再帰代名詞「se」を「mais qui le cache」として三人称単数男性・直接目的語「le」に置き換えた。この箇所は2人の舞踊思想の分岐点として重要であり、この一語の書き換えの意味をより詳細に検討するため、以下の分析を行う。6.引用箇所の比較検討マラルメが「se」を「le」に書き換えた意図は、「cache」の目的語を明確に「corps」であると指示し「律動が身体を隠す」意味にするためだと考えられる。このことはヴィルギュールも削っているところからもうかがえる。一方、ローデンバックのもとの文章での「qui se cache」の場合は、「qui」の先行詞が「le rythme」となるため、再帰代名詞は「lerythme」をうけ「律動が自らを隠す」となる。ローデンバックの文章では、身体が律動となってあらわれながらも、その律動自体は消えていることになる。この「se」から「le」への書き換えで袂をわかつ二つの文にローデンバックとマラルメの舞踊観の相違をみてとることはできないだろうか。このテーマは『フィガロ』紙での記事において、踊り子が衣装を着用することの重要性と、小道具にヴェールを使用することの意味としてあらわれている。それゆえここ最近において姿を見せている踊り子たちの中で最も暗示に富む踊り子は、まさしくその魅力的な力を、彼女のまわりで布を増やしてゆく行為に負っているものといえる。あの驚くべきロイ・フラーを思い出したい。身体は見つけられないものとして魅了している。(32)ここからは、あくまでローデンバックの関心は踊り子の身体と布(衣装あるいはヴェール)の関係であることがうかがえる。すなわち、踊り手が布で身を包むことではじめて魅力が発揮される、というの57