ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

ページ
66/542

このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている66ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALで続く3断章を、第三節「ヘーゲルとニーチェ」で最後の4断章をそれぞれ取り扱う。1-1.石と炎「オベリスク」はおよそ語や概念の定義といった所定の手続きを踏むこともなしに、後から読み返してみれば全体の主題を要約しているように見えなくもないものの、初見では何のことやら見当のつきかねるような謎めいた段落で始まり、すぐにニーチェの引用に移行する。これもまた出典などを一切明かすことなしに唐突に開始され、唐突に終了するのであるが、多少なりともニーチェに通じた読者であればいちいち出典を明示する必要もないぐらい有名な箇所だとバタイユは判断したのだろう。ここで引用されるのは「狂気の人間」と題された『悦ばしき智慧』第三巻の断章125番、と言うよりあの有名な「神の死」が宣告される断章だと紹介した方が通りがよいであろう(1)。長々と引用されるこの断章について、しかしここでバタイユが最も力点を置いているのはニーチェにおける「神の死」の思想が持ち得る意味などではなく、その「神の死」を狂人が宣告するのが「広場」(la grande place) (2)だということである。先走って付け加えておけば、その「広場」を、そこにおいて「ルイ16世の処刑台からオベリスクに到るまで、一つの構成物が形成される」ところの「公園」(LA PLACE PUBLIQUE) (3)すなわちコンコルド広場と重ねてみているのがバタイユによるこのそう長くない論考の最大の焦点ということになろう。ともあれ、ニーチェの引用ののち、バタイユはまたひどく抽象的かつ観念的な、謎めいた一段落を挿入する。そこで人間存在は「埃の粒子」(des particulesde poussiere) (4)に擬せられ、何らかの中心をめぐって果てしなく旋回を続けるものとして描写される。『ドキュマン』誌に見られるバタイユの「埃」という主題に対するこだわりをひとまず棚上げにすれば、ここで「埃」に擬せられた人間たちは「中心」に対して無価値かつ無力な「周縁」として捉えられており、このバタイユ版「中心と周縁」とでもいうべき対立構図はそのまま郊外(=周縁)と首都(=中心)、とりわけ首都のさらに中心となる「記念碑や記念広場」(les monuments et les placesmonumentales qui en sont le centre) (5)との対立構図というかたちで空間化される。バタイユはさらにクラウゼヴィッツの戦争論を援用して、そうした首都の中心に据えられるべき記念碑の代表例としてオベリスクを持ち出し、次のように言う。「コンコルド広場が神の死を宣告され、叫ばれるべき場所であるのは、オベリスクがまさにその最も静謐な否定であるがゆえにである(6)。」このきわめて断言的で無根拠なテーゼはこの論考の結論と言ってもいいものだが、バタイユはこれを文章の冒頭に置くでも結末に置くでもなく、ほとんど投げやりに途中に放り出すように書いている。むしろこのテーゼは単なる結論という以上に、それ自体があたかもその周りを埃としての人間存在が旋回する「中心」すなわちコンコルド広場やオベリスクであるかのごとく、中心軸としての役割を負わされ、その主題の様々な変奏が「周縁」として錯綜した論考を形成しているようにも見える。事実、この断言的なテーゼに続いて次の一文が配される。「流転し続ける空虚な人間という埃は見渡す限りその周りを旋回している」(Une poussiere humaine mouvementeeet vide gravite autour de lui a perte devue.) (7)。この表現はその後も「生は境界の周りを旋回してやまない」(la vie ne cesse pas de graviterautour des bornes) (8)とか「見渡す限り旋回する生の無意味さ」(l’insiginifiance des vies qui gravitea perte de vue) (9)とかいった文章によって反復され、この「オベリスク」という論考全体を通してあらわれる「中心と周縁」および周縁の「旋回」というイメージを形作ることになる。このような一定のイメージおよびそれを喚起する表現を短い文章の中で繰り返し使用することで展開される、通常の論理とは異なるバタイユ独自の思考を仮に「ヴィジョンの思考」と呼ぶことにしよう(10)。この「ヴィジョンの思考」は中心と周縁、首都と郊外のように対立するものを組み合わせながら進展する。そのために「ヴィジョンの思考」は同時に「対立の思考」とも呼ばれうる。こうした「対立とヴィジョンの思考」はオベリスクとピラミッドという、古代エジプトの産んだ二つの記念碑的建造物をめぐって展開されるとき、最も複雑な様相を見せることになる。オベリスクとピラミッドは単純に対立させられるわけでもなければ、同一の主題へと回収されることもない。少し長くなるが、この二つの建造物をめぐるバタイユの記述を引用してみよう。64