ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

広場あるいは<神の死>の劇場―ジョルジュ・バタイユ「オベリスク」読解―「王=神を太陽神ラーの傍らに、すなわち天空の永オベリスクは恐らく、首長あるいは天空の最も純粋なイメージであろう。エジプト人たちはそれを、軍事的権力と栄光の記号として眺めていたし、また墓としてのピラミッドのうちに落日の光線を見ていたのと同様に、彼らはその美しいモノリスの稜線のうちに朝日の輝きを認めていたのだ。オベリスクはファラオの軍事的至高性に対応しているが、ピラミッドはファラオの乾燥した脱け殻に対応している。あらゆる事物の流転し続ける流れに対して、それは最も確実で持続的な障害物なのだ。そしてその堅固なイメージは――今日でもなお――天空のさなかへと切り離され、いたるところで民衆のきわめて不幸な変転を通じて、至高のものとして永続性を維持している。(11)古代の王の軍事力を誇示するオベリスクが朝日、王のミイラを収める墳墓たるピラミッドが落日という対比を示しつつ、しかしこの二者には共に「〈不死〉のエジプト的なイメージ」としての「石化した太陽光線」(12)という位置付けがなされている。この「石化した太陽光線」としてのピラミッドおよびオベリスクは流転してやまない悲惨な世界から切り離されて、永続性や至高性の象徴として存在している。この「流転するもの」と「不変のもの」の対立は、先の「中心と周縁」という対立構図に代わって、あるいはその対立構図を変奏するかたちで、今後この論考を貫く重要なヴィジョンとなる。そしてエジプトから移送されてきたこの「ラムセス二世の古いオベリスク」はパリという「都市生活の中心」にあってなお(13)「流転するもの」に対する「不変なもの」という性格を失わないのだとバタイユは言うのである。事実、この論考より少し後、第二次世界大戦の開戦後に書き始められた『有罪者』の中でバタイユは、このオベリスクが、王の墳墓たるピラミッドの代わりに、ヘーゲルが「世界精神」(l’≪ame du monde≫)と呼んだナポレオンの墳墓たるアンヴァリッドと一緒に視界に収まるとき、やはり戦時下という流転する時代にあってその壮麗な姿をあらわすことになるのだと書いている(14)。いや、あるいは戦時下という流転する時代にあってこそ、と言うべきかも知れない。バタイユは続く断章でピラミッドについてさらに考察を深めていくが、そこで遠性のさなかに参入させる」(15)ことによって墳墓でありながら同時に王を神と化する不死の象徴でもあるこの巨大な建造物は「流転するもの」と対置される。不変のものとしてのピラミッドがナイル川という「流転するもの」の岸辺に置かれているように(16)、その「石の不動性」は「時間が足許に開く堪えがたい空虚」に対置されねばならないのである(17)。そして「死すべきものからは逃れ去ってしまう何物かを保持している」不死の象徴としてのピラミッドがナイル川という「流転するもの」の岸辺を離れてはありえないように、パリに運ばれたオベリスクもまた、セーヌ川という「流転するもの」の岸辺にあることがバタイユによって強調される(18)。ここにきて遂に「不変の石」と「流れと炎からなるヘラクレイトス的世界」との対立(19)というヴィジョンとしてあらわされるこの対立構図は、同時に「時間と神のあいだで戦われる長く鎮め難い闘争」と言い換えられることで、バタイユの「対立とヴィジョンの思考」はピラミッドやオベリスクといった具体的な建造物の例をしばし離れて、より観念的な次元へと進展することになる。次節ではそれを見ていくことにしよう。1-2.神と時間前節でわれわれはバタイユの「対立とヴィジョンの思考」に沿うかたちで、オベリスクやピラミッドを構成する「石」に象徴されるような「不変のもの」と、ヘラクレイトス的な万物流転の世界観の基礎をなす「炎」に象徴される「流転するもの」との対立の思想的な展開として「神と時間との闘争」というヴィジョンに到達したわけであるが、続く断章においてこの対立構図は基本的に、「神」を「不変のもの」の系列に、「時間」を「流転するもの」の系列にそれぞれ位置付けるという図式のもとに展開される。バタイユはここで人間が本来持っていたはずの不安(その極点は死である)をもたらす「時間感覚」が、古代から文明が進展していくにつれ、ちょうど「いまだ死という意味を留めていた砂時計がだんだんと精確になる柱時計によって取って代わられていった」ように、「節度と平板さ」によって退けられていったという、ある意味でハイデガー的といってもいいような図式を展開する(20)。ここで描写される人間は基本的に「流転するも65