ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALの」としての時間(=死)を退けているのだが、しかし王の死を乗り越えるためピラミッドという「不変のもの」を建立した古代エジプトの民とは違い、「人間の渇望はもはやかつてのように権力的で偉大な境界を建立する方へは向かわない」どころか、「反対に、構築された静謐さから解放してくれるものを熱望する」ようになる(21)のだと、バタイユは書く。ここで「権力的で偉大な境界」(des bornes puissanteset majesteuses)とか「構築された静謐さ」(latranquillite etablie)、あるいは「これまで動揺と不安とを堰き止めてきた境界」(des bornes qui enavaient jusque-la maintenu l’agitation et l’angoisse)とか「大いなる形象」(ces grandes ficures) (22)などと抽象的に言い換えられているのはピラミッドやオベリスクのことだが、古代から変わらず人間のそばに存在しているこうした「不変のもの」たちはしかし、人間がひとたび死の不安をもたらす「時間感覚」を取り戻せば途端に揺らぎだすような他愛ないものに変わってしまっている。「時間とそれがもたらす切断的な爆発との遭遇」において人は、これらの「大いなる形象」と共に「死を開示するもの」をも見出すこととなり、これら「大いなる形象」はもはや「倒壊するために立っているに過ぎない」(elles ne tiennent debout queprete a tomber)のであり、そこにおいて「生の絶望的な墜落が開示される」(reveler la chute desesperantedes vies) (23)。バタイユはここでニーチェの表現を踏襲しながら(24)再びオベリスクに仮託して「神の死」を描き出すが、それはもはや「不変のもの」としての神が「流転するもの」としての時間との闘争に敗れるという単純な構図に還元されるものではない。オベリスクという「かつて嵐に対する限界を画しようとしていた石そのものはもはや、遂に何物によっても堰き止められなくなったカタストロフの巨大さを示す目印に過ぎない」(25)のである。先にヘラクレイトス的な「流転するもの」の象徴としての炎に対立する「不変のもの」の象徴であった「石」すなわちピラミッドやオベリスクはここで倒壊することによって、むしろそれを打ち倒した「流転するもの」をより印象付けるようになる。ここに「記号の転倒」(ce renversement des signes)が起こり、ピラミッドやオベリスクといった建造物は、かつて「不変のもの」であったがゆえに現在は逆に「流転するもの」を象徴するという、きわめて両義的な性格を有することになったのである。そのうえでバタイユは「不変なもの」よりもそれを打ち倒す時間という「流転するもの」により魅かれるという人間の心性は時代に合わせて発展してきたものではないとして、視点を古代ギリシャへと移す。ここで「時間」に対応させられるのは「いまだ解明されざる《秘蹟》」(le moins explique des≪mysteres≫)としての「悲劇」であり、こうした生命の在り方を最もよく表現しえた哲学者としてヘラクレイトスが挙げられ、これら悲劇時代のギリシャから多くを得た思想としてニーチェの「神の死」はソクラテスと対置される(26)。バタイユはさらにソクラテス以降の思想を「キリスト教の重力」(lapesanteur chretienne)と呼び、ローマにあるオベリスクの上に現在設置されている十字架について、この十字架の「金属」とオベリスクの「石」とが釣り合わず「失敗した交接」(cette copulation manquee)をなしていると指摘する(27)。ギリシャ悲劇やヘラクレイトスに代表される前ソクラテス時代の思想家(les pre-socratiques)とニーチェの「神の死」を結びつけたバタイユは、その対立項としてソクラテスから古代ローマのキリスト教(christianismeromain)までを一貫したものと捉えているのである。しかし十字架を接合されたオベリスクという「バロック的にして狡猾な建築物は、ただ崩れ落ちるためだけに建設されたのである」とバタイユは断言する(28)。ソクラテス=キリスト教がもたらした「神」(=善)と「時間」(=悪)という対立構図はやはり、「神の死」に到って転倒されるのである。西洋人の生活は古代の生活から発展するに従って「悲劇的時間」(le temps tragique)を捨て去ってきたが、再び古代の世界へと道を逆行しつつあるとバタイユは説くが、それはつまるところ「原始的なギリシャの素朴さが有していた悲劇という解放」への希求というかたちをとり、その希求はついに「墜落の眩暈」(le vertige de la chute)をもたらす(29)。オベリスクが同時に「不変のもの」と「流転するもの」を象徴するというこの複雑な両義性を、バタイユは時間の「求心的」(centripete)な側面と「遠心的」(centrifuge)な側面として言い換え、さらに弁証法という観念へと関連付けようとする。かつてソクラテスの方法であり、のちにヘーゲルの方法となった「弁証法という観念はつまるところ時間とその対立物の、すなわち神の死と不変のものの立場と66