ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

広場あるいは<神の死>の劇場―ジョルジュ・バタイユ「オベリスク」読解―の究明に努めることで「建築の擬人体的模倣」を攻撃し、アンフォルム論に見られるような「怪物的なもの」、すなわち「形態なき形態を伴う反建築を求める」立場をとる理論家として見られている(50)。オリエと、その仕事を受け継ぐ人々がバタイユに見出した、建築でありながら建築であることを拒むような「反建築」の在り方はそのまま、われわれが「オベリスク」やピラミッドを論じた他のバタイユのテクストに見た、倒壊するために建てられる建築、記念碑でありながら記念碑性を拒む建築という両義性とつながっている。オリエはこの種のバタイユの建築観を、上昇を目指して建てられるピラミッドを、同じくバタイユが『内的体験』前後でこだわりを見せた、地下へと人を沈みこませる建築としての迷宮ラビュリントスと対置することで、上昇と墜落という構図のもとに捉えて、こう要約する。「イカルスは飛翔するが、再び墜落する」(51)。バタイユの筆致のもとで倒壊するために建てられたかのような相貌を見せるオベリスクやピラミッドといった建築は、初めから墜落を運命付けられながら太陽へ向けて飛翔するイカルスに重なってくる。こうしたバタイユの建築観あるいは空間論を、オリエは1934年にバタイユがアンドレ・マッソンと共にスペインのモンセラート山に登ったときのある経験に結びつけている。望遠鏡を通して大聖堂の見える山頂からの帰路のことを、バタイユは生前未発表となった文章『兆し』に書いている。た表現が頻出するこの論考を、オリエがバタイユの「天空への墜落」体験と結び付けているのは理由のないことではない。山頂で遭遇しためまいをもたらすような空間体験とその恐怖はバタイユをして、倒壊するための建築としてのオベリスクが立つコンコルド広場に白昼からランタンを灯して神の死を宣告するニーチェの「狂人」を闖入させることで、建築が構成する空間そのものが秘めている「不気味なもの」を、不安感を暴き立てさせたのである(56)。アンソニー・ヴィドラーは「オベリスク」を同じくバタイユが殺人事件の現場を収めた写真集に寄せた書評(57)と関連付けるかたちで、「ルイ十六世を処刑したギロチンが設置された場所であった」コンコルド広場は「実際の殺人の現場」であるとともに、「標識の役割を果たす記念建造物」としてのオベリスクが立つ「政治的ならびに建築的に言って、とりわけ、不安定であった」場所であるがために「神の死を宣告する場所」たりえたのだと指摘している(58)。こうしたバタイユの建築論、空間論に裏打ちされた論考「オベリスク」は王の処刑場としてのコンコルド広場と「神の死」の舞台とを結び付けるに到った。最終章ではこの結び付きが持つ意義について、まずピエール・クロソウスキー『わが隣人サド』(初版1947年)との思想的連関性という点から、次いではそこに開かれる空間がバタイユの文業を貫く重要な「演劇的なもの」という主題に通じる一種の演劇空間と化しているという点から、それぞれ論ずることにしよう。帰路、マッソンは少しずつはっきりするような具合で、私にモンセラートでの夜のことを説明する。天空への墜落という恐怖。天空の裂け目。胎児のような教会の中で。(52)山頂から空を眺めているうちに上下感覚が混乱し、めまいと共に天空へと墜落していくような錯覚を覚える。この「天空への墜落」という経験は、「オベリスク」に頻繁にあらわれる「墜落」のヴィジョンと明らかに地続きの関係にある。「墜落の眩暈」(le vertige de la chute) (53)、「底なしの墜落感覚」(un sentiment de chute sans fond)、「人間に独自の墜落」(la chute originelle de l’homme)、「《回帰》の墜落」(la chute du≪retour≫) (54)、「めまいのするような墜落」(la chute vertigineuse) (55)といっ3.劇場空間の出現または「夢のランタン」3-1.神の死と王の処刑第一章に引いた「コンコルド広場が神の死を宣告され、叫ばれるべき場所であるのは、オベリスクがまさにその最も静謐な否定であるがゆえにである」(59)という「オベリスク」の一節は、そのままこの論考におけるバタイユの中心テーゼといっていい。オベリスクはその静謐な外観とは裏腹に、あるいはその静謐な外観ゆえにこそ、そこで国王の処刑が行われたという事実を見る者に開示してやまない。そしてピラミッドに収められたファラオが太陽の高み、天空の高みにまで昇ることで神性を獲得していたように、コンコルド広場で処刑された王もまた一個の「神」であった。それゆえに、バタイユにとっ69