ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALて王の処刑はそのまま「神の死」に通ずる事件なのであり、コンコルド広場はニーチェの書物に登場する架空の広場の具現化したものなのである。こうした「神の死」と「王の処刑」とを重ね合わせる思想はバタイユだけのものではない。バタイユの思想的盟友とでもいうべき存在であったピエール・クロソウスキーもまた、1947年に初版が刊行された『わが隣人サド』――この著作をのちにバタイユは『文学と悪』に収められる書評で批判的に取り上げるのであるが――において同様の見方を示している(60)。国民による王への死刑執行はそれゆえ、リベルタンの大領主の反逆による神への死刑執行をその第一段階とするプロセスの最終段階に過ぎない。(……)ギロチンの刃がルイ十六世の首を切り落とす瞬間に、死にゆく者としてサドの目に映っているのは市民カペでもなければ、裏切り者ですらない。死にゆく者としてサドの目に映るのは、ジョゼフ・ド・メーストルやあらゆる教皇権至上論者の目に映るのと同様に、神の代理人なのである。そして、反乱を起こした民衆の頭に降り注ぐのは神の現世での代理人の血であり、より深い意味でいえば、神の血なのである。(61)嵐に対する限界を画しようとしていた石そのものはもはや、遂に何物によっても堰き止められなくなったカタストロフの巨大さを示す目印に過ぎない」(63)というフレーズを自己引用(64)しているように――われわれが本稿の第一章で用いた術語でいうなれば――石、すなわち「不変のもの」としてのオベリスクにもまた、それまで隠してきた王の処刑という血生臭い歴史を、すなわち「流転するもの」としての時間に耐えきれなくなる瞬間がついに訪れる。その到来を告げるのが、ニーチェ『悦ばしき智慧』で狂人が白昼から掲げていた、あのランタンの光である。神聖な(=高い)場所は、こうした陰険かつ茫漠とした方法で、その軌道を見渡す限り旋回する生の無意味さに応じている。そして光景(=見世物)は、もしある狂人のランタンがその不条理な光を石の上に投げかければ、そのときにだけ変貌を遂げる。その瞬間、オベリスクはこの空虚な現代世界に属するのをやめて、歳月の底にまで投げ出される。(……)今やオベリスクがその死せる偉大さをもって認知される限り、もはや意識の滑落を促すのではなく、処刑台へと注意を差し向けるようになる。(65)かくしてコンコルド広場における王の処刑は「神の死」と少なからぬ思想的関連をもつわけであるが、クロソウスキーがあくまで当時の神政的封建制の打破としての革命という思想的意義の側面から王の処刑を「神の死刑執行」に結び付けるに留まり、禁欲的なまでにニーチェへの安易な言及を避けているのに対し、バタイユはオベリスクという建築物を媒介としつつ、コンコルド広場という空間そのものをニーチェの所謂「神の死」の現場、民衆による神の殺害現場として提示している。エジプトのルクソール神殿から運び込まれたオベリスクが広場の有する血生臭い歴史を抑え込む静謐な記念碑的建築物という意義を果たしていることを、バタイユは、恐らく『ムジュール』という初出誌名への皮肉な掛詞であろうが「節度の国の節度ある臍」(le nombril mesure du pays de la mesure) (62)と表現している。しかし「処刑台」と題されたこの断章の冒頭にバタイユが、先に自ら記した「かつてコンコルド広場を血生臭い歴史などなかったかのように、そこに王の処刑台などなかったかのように静謐な空間たらしめている「石」すなわちオベリスクが、ニーチェの描き出す狂人が不条理にも白昼から灯しているランタンの灯――「オベリスク」冒頭でバタイユはこのランタンを「夢のランタン」(lanterne de reve)と呼んでいる(66)――を当てられることでその性格を一変させ、「不変のもの」から「流転するもの」へと移行する。このことはそのままわれわれが第二章で論じた、建築物でありながらその建築性を拒むというバタイユにおける「建築の両義性」、つまり天空という「高い場所=神聖な場所」へ向けて上昇しながらもある時点でそれが反転されて「天空への墜落」という恐怖をもたらす、めまいのするような空間を形成するまでになるという両義性と重なり合う。先に指摘した、この論考において頻出する「墜落」という語のそのほとんどの用例がこの前後に集中していることは偶然ではな70