ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

イザドラ・ダンカンの初期舞踊形成・公演活動について-アメリカでの活動を中心に-このように、イザドラの家族は、クラスの開講、公演巡業、リサイタルの開催をするなどそれぞれが役割を担いながら生活資金を一家総出で稼いでいた(図4)。しかし、踊りの主役は常にイザドラであった。その後も生活費を稼ぐため、イザドラはサンフランシスコで興行を行っていた劇団のマネージャーの前で母のピアノ伴奏に合わせて踊りを披露している。しかし、「この種の出し物は、舞台には合いませんね。むしろ、教会向きですよ。どうぞ、お嬢さんを家に連れて帰ってあげてください(46)」と断られ、サンフランシスコに希望を見出すことができなくなったイザドラは、その当時商業都市として栄えていたシカゴに行くことを決意することになる。4.シカゴでの舞踊とデイリー劇団1895年、18歳のイザドラは母とともにシカゴに行き、劇場のマネージャーの前で踊っているが、ここでも「これは劇場向きではない」と断られ、所持金も底をついたため職業案内所に足を運んでいる(47)。そのような時、イザドラは「オールド・ボヘミア」という芸術家、作家、俳優、音楽家などが集まるサークル(48)で知り合った友人からメイソン寺院ルーフガーデン(49)のマネージャー、チャールズ・フェアを紹介された。彼女はマネージャーの前でメンデルスゾーンの『春の歌』の踊りを披露するが、マネージャーからは脚を蹴り上げるカンカン踊りを要求されてしまった。生活のために仕方なく踊らされていた踊りは大成功であったが、信念に従って行動できなかった自己を嫌悪した様子が次の文章から読み取れる。らせるのは、このような状況があったからであろう。しかし、この頃イザドラは家族の生活費を稼ぐために、自身の持つ舞踊の理想とはかけ離れた条件を受け入れ、メイソン寺院のルーフガーデンに週20ドルで3週間(51)ほど出演していた。自分の理想に反してメイソン寺院で踊り続ける生活に嫌気がさした頃、新聞記事に掲載されていたオーガスティン・デイリー劇団の記事が目に留まり、イザドラはオーガスティン・デイリーに会うことを決意した。デイリーは当時アメリカ随一の芸術愛好家で、美的感覚に優れていると言われた高名な演出家であった(52)。彼女は彼の前で演劇における舞踊の重要性を力説し契約を獲得、ニューヨークで公演する予定の『ミス・ピグマリオン』の端役(53)をもらうことになる。劇団に入り踊りを披露したいと考えたのは、幼い頃叔母のオーガスタが家に来て芝居を演じて皆を楽しませていたことなど、演劇がイザドラにとって近い存在であり、何よりも芸術愛好家のデイリーに認めてほしいという思いがあったからであろう。契約成立後、ニューヨークにあるデイリー劇場の楽屋口に出向いたイザドラは、当時のパントマイムのスター、ジェーン・メイ(54)と昼食抜きのリハーサル(55)を3週間ほど行っている。しかし、この劇団で与えられたイザドラの役は、踊りではなく18世紀風の衣装に金髪のかつらと大きな麦わら帽子を被ってパントマイムを演じるというものであった。「私が世界にもたらすことになっている芸術革命にとって、何と悲しいことだろうか! (56)」と嘆いているように、またもや自身の舞踊を踊ることのでここで私は偽名を使って大成功を収めたが、じつは何もかもが嫌だった。そしてその週の終わりにマネージャーが契約延長と旅興行を申し出てくれたが断ってしまった。私たちは飢え死にしないですんだが、自分の理想に反することをして人々を喜ばせるのはもうたくさんだった。そしてこの時がそのようなことをした最初で最後だった。(50)当時のアメリカでは、イザドラの考案した舞踊を理解する土壌が出来上がっておらず、イザドラに踊りを「芸術」の領域に高めたいという強い思いを募図5.『真夏の夜の夢』で妖精役を演じるイザドラ(1896年頃)79