ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALきない苦痛に耐えている様子がこの言葉から読み取れる。この時、イザドラは「芸術革命」という言葉を発しているが、これは舞踊を真の芸術の高みに持っていきたいと切望していた彼女の舞踊精神に反する行動をしていたからこそ吐露した言葉であったに違いない。その後、イザドラは『真夏の夜の夢』で踊る妖精役(図5)を得ることになるが、彼女自身は舞踊は人間の思いや感情を表現するためのものと考え、妖精役には興味がなかった(57)。ところが舞台上で彼女の踊る姿を見た観客が拍手を送ったことから「ここは演芸場ではない」と逆にデイリーをひどく怒らせてしまうことになる(58)。イザドラは、妖精役で週25ドルという当時としてはかなりの高額を得ていたが、自身の抱いていた舞踊を劇団内で実現するには至らず、この頃あまり幸福ではなかったようである(59)。デイリーの立腹した態度から、イザドラは彼女の舞踊がまだ芸術として認められていないことに気付き、より一層舞踊を芸術として認めさせたいとの思いを強くしていく一方、劇団でのジェーン・メイのパントマイムと主演女優のアダ・レーハン(60)の演技を目の当たりにして、両者から舞台での存在感を見出す秘訣を学んでいた。デイリー劇団でのイザドラはニューヨークだけに留まらず、劇団と共に渡英し、そこでも公演活動を続けた。さらに、彼女にとって有益だったのは、エンパイア劇場で振付を行っていたカティ・ランナーというバレエ教師からバレエのレッスンを受けたことである(61)。しかし、イザドラは入団して僅か2年数か月後の1897年暮れか1898年初旬頃にデイリー劇団を去ることになる(62)。レイモンドが「最終的には私たちはイザドラにデイリーの劇団を辞めるように説得し、彼女に再びダンスをするように促した(63)」と記していることから、デイリー劇団を辞めたのは彼女の意志だけでなく、当時ニューヨークに在住していたダンカン一家の考えも大いに影響していたと思われる。5.劇団退団後とアメリカでの初期舞踊公演デイリー劇団退団後、独自の道を歩むことを決意し、再び白いドレスを身に纏い母のピアノに合わせて踊る毎日に戻った(64)イザドラは、ニューヨークで舞踊学校を開いていたイタリア人バレエ教師のマリー・ボンファンティにバレエを学んでいる(65)。ボンファンティは、彼女が踊った『ブラック・クルック』がアメリカ中で大ヒットするなど、アメリカにバレエ・ブームを巻き起こした人物であった。この頃のイザドラは自身の舞踊形成に励むことになるが、兄レイモンドの協力にも注目しなくてはならない。レイモンドは、舞踊が偉大な芸術であったことを声高に唱えなくてはならないと感じ、この時期『舞踊の哲学』を執筆、その原稿をエリザベスがニューヨークの名士アーサー・ドッジ夫人の家で読んだと覚書に記述している(66)。実際、筆者が当時の新聞記事を調べたところ、1898年2月15日にドッジ夫人の家でエリザベスの朗読とイザドラの舞踊を披露していることが確認できた。新聞には朗読された原稿の一部が次のように掲載されていた。舞踊は至高の動きの表現で、舞踊の訓練は身体から受け取る精神の支えを増加させる。踊ることは、音楽と詩を表現しその双方を享受し、魅了させる手段であるべきである。舞踊は新しい考えと新しい感覚を伝えることができる。(67)レイモンドはまた、「講義は大成功を収め、これがイザドラの未来の偉大なダンスの源となった(68)」と記述している。この記述はイザドラの舞踊形成においてレイモンドの舞踊哲学が必須であったことを示唆しているのではないだろうか。この公演で、イザドラはヨハン・シュトラウス2世のワルツ(69)やエリザベスの朗読を身体で描写、イグナツィ・パデレフスキの曲で『さすらいの踊り』、エセルバート・ネヴィンの曲で『ナルシスの物語』、オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』、『海の精』、アンジェロ・ポリツィアーノの詩をエデュアード・ホルストの『メヌエット』で表現し、最後に『陽気な踊り』を踊った(70)。当時の新聞記事によれば、イザドラの踊りは非常に優雅で、観客は脚よりも上半身と腕の動きの方に目が惹きつけられたようである(71)。1898年2月28日には、イザドラはカーネギー・ホールのスタジオでダンスを教えていたエリザベスが主催するお茶会で踊っている。この公演を伝える新聞記事によると、白の薄いガウンに短いスカート、ピンクのタイツとバレエ・シューズを身に付けていたようであるが(72)、ここから当時のイザドラ80