ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALから5日後の新聞は、イザドラのポーズは、ハイヤームの詩よりも彼女自身の身体ラインの表現をしていたと記述している(87)。図6は1899年2月5日号のザ・ニューイングランド・ホーム・マガジンに掲載されたイザドラが『ルバイヤート』に合わせて踊っている姿である。火災事故で多大な損害を受けた以後も公演活動を続けたが、支援者からの寄付金を合わせても期待以上の収益にならず、アメリカにおいて自身の踊りが芸術として認められることはなかった。イザドラは、自身の舞踊のさらなる向上を求め、以前から憧れていたイギリスに家族と共に向かうことにした。おわりに本論では、イザドラのアメリカでの舞踊形成と初期活動に焦点をあて、主にレイモンドの覚え書きや当時の新聞記事を検証し論じた。その結果、自然に親しんでいた幼少期に芸術的な気質をもった親戚や家族の影響があり、とりわけ祖母のアイルランド舞踊がイザドラに初めて踊るきっかけを与えたのではないかと推察できた。また、公立学校での環境に満足しなかったイザドラが、母親から教養を身に付け『ルバイヤート』の詩が写真下に記述されていることから、掲載されている詩を写真のポーズや動きで表現したと推察される。これらの写真からも、初期活動時代のイザドラは、白いレースのドレスにタイツとバレエ・シューズを履き、バレエ的要素を含んだ可愛らしいスタイルで踊っていることが確認できる。しかし、同年の3月17日、当時居住していたウィンザー・ホテルが火災で全焼(88)したことから、殆ど財産を失った一家は、アーサー・フォン・プリーゼン氏宅へ一時避難、その後はホテルバッキンガムに落ち着いた。その後も収入を得るため、イザドラは公演活動を続け、4月10日にはジョン・ディ・ゼレガ夫人の企画によりレストラン「デルモニコズ」において『春のダンス』というタイトルで公演(89)、そこで『春の目覚め』を踊っている。だが、この公演ではイザドラの踊り以外にも他の踊りの披露と夕食がもてなされており、当時イザドラの舞踊はまだ余興的な位置づけをされていたと考えられる。一家としての公演では、ライシィアム劇場で4月18日に、レイモンドが『より幸せな黄金時代』と題した講演を行い、オーガスティンとエリザベスがギリシアの羊飼いの衣装を着て対話を始め、イザドラが牧歌舞踊を踊った(90)図6.『ルバイヤート』を踊るイザドラ。このようにイザドラと家族は、滞在先のホテルがそれを真の教育としていたことや父親のギリシア憧憬の影響もあったことが父親の詩からも確認できた。これまでの先行研究ではイザドラの舞踊は思い付きや即興で踊られていたと記述されるものが多く、イザドラがどのような舞踊教育を受けていたかについては曖昧で不明瞭であったが、レイモンドの未刊の覚書から、幼少期から体操クラブに通い、自宅では舞踊教師から舞踊の基本的なステップを、10代になってからは一流のバレリーナに学んでいたことが明確になった。作曲家ネヴィンとの共演により多くの富裕層からさらなる支援を得て、知名度が増すことになったイザドラは、『オフィーリア』の踊りによりそれまでの可愛らしい踊りから飛躍的に開花したことがレイモンドの覚書で明らかとなった。それは2年数か月デイリー劇団で学んだ成果であったと推察できる。しかし、富裕層に招かれ踊りが称賛されはしても、イザドラの踊りは当時のアメリカでは余興や娯楽的なものと見做される傾向にあった。自身の舞踊を芸術の域に高めていきたいと強く願っていたイザドラは、このことに不満を持ち、滞在先ホテルの火災事故をきっかけに、以前から本を読み憧れていたロンドンを新天地として選んだ。ヨーロッパに移住してからのイザドラは、美術館や図書館等でも舞踊研究に励み、自身の舞踊精神を基にギリシア風チュニックに裸足というスタイルを編み出し、独自の舞踊を確立していくことになる。82