ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

イザドラ・ダンカンの初期舞踊形成・公演活動について-アメリカでの活動を中心に-イザドラの舞踊の確立には、渡欧前のアメリカでの初期時代に祖母の民族舞踊をはじめ、舞踊に必要なステップ、バレエ、体操等を専門の教師から習得していたこと、またデイリー劇団でパントマイムや演技等を学び、研鑽を積んだことが基盤になっているといえるのではないだろうか。その意味から、本論によりイザドラの初期舞踊形成と公演活動を明確にしたことは意義があり、加えて、イザドラの初期活動にはレイモンドの舞踊哲学の影響があったことも見逃すことができないであろう。図版出典一覧図1:Duncan, Doree, ed. Life into Art : IsadoraDuncan and her world(以下LIAと記す). NewYork: Norton, 1993, p.27.図2:Moss, Staff-Sergt. Simple Indian Club Exercises.London: Ewart Seymour &Co., 1905,n.p.図3:Dance Magazine July 1977, p.49.図4:LIA, p.29.図5:LIA, p.31.図6:The New England Home Magazine Feb. 1899,pp.247-248.注(1)アメリカ独立戦争(1775年4月19日-1783年9月3日)でジョージ・ワシントン将軍の下で戦い、後にジョン・ジャクソン将軍の知己となった人物。(2)Crescentという会社。Rather, Lois. Lovely Isadora(以下LIと記す). Oakland, CA: Rather Press, 1976 , p.10.(3)Harte, Bret, ed. Outcroppings: Being Selections ofCalifornia Verse. San Francisco: A.Roman,1866.(4)Duncan, Isadora. My Life(以下MLと記す). New York:Liveright, 1955, p.16.(5)ダンカン一家は、後にギリシア訪問を実現することになるが、その時イザドラは父の描いた詩の中にあるような(舞踊の)神殿を建て、そこで少女に舞踊を教えたいと強い想いを抱いた。(6)1871年11月8日生まれ。(7)1873年4月17日生まれ。(8)1874年11月1日生まれ。(9)Seroff, Victor. The Real Isadora. New York: AvonBooks, 1972, p.24.(10)Blair, Fredrika. Isadora: Portrait of the Artist as aWoman(以下Blairとのみ記す). New York : WilliamMorrow, 1986, pp.5-6にはラテン語で洗礼証明書が記述されていたと書いているが、その出典は記述されていない。(11)筆者が閲覧したニューヨーク公共図書館所蔵の洗礼証明書は英語で記述されていた。(12)Blair, 1986, p.8.(13)ML, p.14.(14)ML, pp.12-14.(15)ML, p.13.(16)ML, p.23.(17)ML, p.10.(18)ML, p.19.「彼女の両親は演劇に関する一切の事柄を悪魔の仕事だと見下していた。もしそうでなければ、歌手として大成功していたかもしれない。今ではとても説明のつかないこと、つまりアメリカの清教徒意識によって彼女の人生がいかに破壊されたか、私にはよく分かる。彼らは自分たちをも手なずけようとして、芸術に悲惨な結果をもたらしたのだった。」(19)LI, p.29.(20)LI, p.2. Blair, p.19オーガスティンは納屋を劇場に仕立て、近所で評判を呼んでいた。(21)当時の家は、離婚した父ジョセフが再び事業に成功し、家族に購入したもので、オークランドの1365番地8番通りに位置していた。(22)ML, p.16.(23)Duncan, Raymond. Memoir (no title:以下RDと記す).n.d. p.1; Duncan, Doree, ed. Life into Art : IsadoraDuncan and her world(以下LIAと記す). New York:Norton, 1993, p.28.オークランドの音楽舞踊評論家のポール・ハーテランディはモスバウムを1885年から1890年まで市に登録されていたサンフランシスコのジェイ・モスバウムという舞踊教師と同一視している。Dance Magazine July 1977, p.50.(24)ドラは1886年にはオークランドのピアニストとして見做されており、1892年の人名簿には音楽教師と記載されている。LI, p.25.(25)マルゲランはワルツのこと。モスバウムはこの踊りを得意としていたようである。(26)イザドラの考案した舞踊の中には『美しく青きドナウ』の中のワルツをはじめ、数多くのワルツのステップがある。(27)RD, pp.1-2.彼は右の前方に飛ぶ方法、左足を左先端83