ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALに引き寄せること、それから右足を滑らせ、左に加え、左足を伴って左後方より先に飛び、左足を後ろの先端まで引き寄せ、それから左足を右足に付けるまで滑らせ、これを繰り返した。これら4つの位置は四角に形成され、それぞれの動きはステップでワルツをして、右に回るというもので、それから反対になって、左側に回り、左足から前方に跳び、最初の動きに続くというものだった。(28)RD, p.2.(29)RD, p.3によると、エリザベスは学校の教師になるのが夢だったようだが、ダンスを教えることになったと記述してある。(30)現在ではPrecision Danceとして知られているもの。ラインダンスのようなものと考えられる。(31)RD, p.3.(32)デルサルト・システムを考案したのは、フランソワ・デルサルト(1811-1871)フランスの音楽教師。身体の表現力を開発するためのデルサルト・メソッドとして知られるシステムを開発した。デルサルト自身はパリのオペラ・ハウスの芸術監督を務めたこともある人物だったが、あらゆる状況における人間の自然な動きを勉強し、俳優たちがより自然に演技できるように教えた。彼は病気で瀕死状態のジェスチャーを学ぶために病院を訪れ、フランスの演劇に多大な変革をもたらした。彼は人間の運動を3つのカテゴリー(偏心的、同心的、正常)と3つのゾーン(頭、胴、手足)に分け、生徒たちの身体制御力を開発した。デルサルトの影響はイザドラのみに留まらず、ダルクローズ、テッド・ショーンなど多くのモダンダンサーが彼のメソッドを取り入れている。イザドラにデルサルト・システムを教えたのは誰か不明である。(33)ブレアもイザドラが少なからずデルサルト体操の影響を受けていたと記述しているが(Blair, p.17), RD, p.4よりイザドラ自身がデルサルト体操のクラスを受け持っていたことが判明した。(34)Macdougall, Allan Ross. Isadora : A Revolutionary inArt and Love(以下IARIAALと記す). New York: ThomasNelson &Sons, 1960, p.31, p81.(35)ゴードン・クレイグ(1872-1966)舞台美術家。(36)Craig, Edward Gordon. Index to the Story of My Days:Some Memoirs of Edward Gordon Craig, 1872-1907. NewYork: Viking, 1957, p.264.(37)RD, p.4.デルサルト・システムはデルサルトの孫弟子にあたるジェネヴィーヴ・ステビンスによって記述され、明らかにされた。その著書Delsarte System ofExpressionの初版は1885年である。この手首が動きを先導し、手は従うという腕の動きの原則は、イザドラの愛弟子リザ・ダンカンに学んだマドレーヌ・リットンが筆者に『ハープ・エチュード』の踊り方を解説してくれた際、「手首が動きを先導し、手はそれに従う」と同様のことを話していた。これらのことを考慮すると、『ハープ・エチュード』の手の動きの原点はデルサルト・システムに依っている可能性は高い。(38)RD, p.3.パウル・ウーテルは体操クラブに参加し、後にオークランドの公立学校のジムナスティックのクラスの監督になっているが、レイモンドによれば、アメリカの学校でジムナスティックの教師になったのは、ウーテルが初めてだったようである。(39)インディアン・クラブのエクササイズのような腕の動きを取り入れていた可能性が高い。(40)ダンカン舞踊の作品には『ラコッツィ行進曲』、『軍隊行進曲』などの行進の動きがある。(41)RD, p.4.(42)Blair, p.19とIARIAAL, p.29はこの家は父ジョセフが住ませてくれた家といっているが、実際父が与えてくれた家はオークランドの1365番地8番地に位置していたと思われる。サンフランシスコの富裕層が住むこのサター通りの家はセントラル・パシフィック鉄道会社を創設したチャールズ・クロッカーが購入したものであり、母親がひと月100ドルで借りていたことが、レイモンドの覚書から分かった。(43)オーウェン・メレディスはペンネームで、初代リットン伯爵のロバート・ブルワー=リットン伯爵(1831-1891)。彼は筆者がインタヴューを行ったダンカン・ダンサー、マドレーヌ・リットン(イザドラの愛弟子リザ・ダンカンの弟子)の曾祖父にあたる。(44)ML, p.20.(45)RD, pp.7-8.(46)ML, p.25.(47)ML, p.26.(48)IARIAAL, p.35.(49)1892年に建設された22階建ての建物で、1895年から1899年まではアメリカで最も高いビルだった。(50)ML, p.28.(51)IARIAAL, p.35、Blair, p.23.しかしML, p.28では週に50ドルを前払いしてくれたと記述してある。どちらが正しいかは確定できない。(52)ML, p.30.84