ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

『偽りの花園』(The Little Foxes, 1941)における奥行きの演出-アンドレ・バザンと表現の明白さを巡って-ショットで既に視線が一致していない点に関しては述べた通りだが、鏡を捉えたショットでも視線が一致してない。2人の視線が一致するのは、オスカーがレオの話す内容を理解し、レオがホレスの金庫を盗み見た事実を知る時である。つまり、ずっとすれ違っていた会話が噛み合った瞬間を、交わらなかった視線が交わった瞬間としてワイラーは演出しているのである。6.おわりにここまで『偽りの花園』における奥行きの演出の具体的な様相を検討してきた。反映によって捉えられたオフ・スクリーン空間や照明、そして視線に至るまで、その演出は画面内に明瞭に映されている。この点から考えるとミトリによるバザン批判は的を射ていたように思える。俳優のアクションを明白に、劇的に演出するワイラーの演出は、たとえディープ・フォーカスで捉えられた映像の中にあっても、観客の注意を導くだろう。ではそうした矛盾さに基づくデクパージュの特徴に一致するだろう。だがそれらのデクパージュはあくまで美学の域を過ぎない。美学であって、表現ではないのだ。バザンがここで述べているように、美学上の問題は、それらが映画として表現された時に生じるのである。そしてバザンはワイラーを論じる中で、美学と映画の関係について以下のように述べる。経験がすでに充分に証明していることではあるが、映画を、何らかの既知の美学と同一視しないように、またさらに、演出家が少なくとも胡麻や丁子として義務的に使われなければならない何か知らぬ方法、何か知らぬ実体化された形式と同一視しないように、しなければならない。ある映画の《純粋》さ、あるいは、私の考えでは、より正確に言えば、その《映画率》は、デクパージュの効果に基づいて計算されなければならないだろう。(バザン1970, 350-351; Bazin 1958, 172,引用文は訳書に基づく)の存在を踏まえた時、バザンのリアリズム論はどのように評価されるべきか。まずバザンが現実の曖昧さを中核としたリアリズム論の前提として、リアリズムというものが時代毎に存在し、唯一のリアリズムというものがないことを述べている点に留意しなければならない(バザン1970, 336; Bazin 1958, 156)。バザンが述べた現実の曖昧さを中核としたリアリズムも、一種のリアリズムであって、唯一のリアリズムではないのだ。これに続けてバザンは以下のように現実という問題を取り上げる。本当にその通りやること、現実を現実の全部を示すこと、現実以外には何も示さぬこと、それは多分、尊敬すべき意志であろう。だが、その意志は、そのままだったら、道徳の面を超えない。映画で0 0は現実の表現しか問題になりえない。美学上の問題は、その表現の方法とともに始まる。(バザン1970, 336; Bazin 1958,157,引用文は訳書に基づく。強調は原文より)演出の「明白さ」という点では、分析的デクパージュが持つ、いわゆる透明性にも通じるだろう。奥行きの演出という点では、現実の曖昧さを生じさせ、観客に見るべきものを選ばせるような画面の深バザンが同時代に賞賛したデクパージュは、画面の深さに基づくデクパージュであっただろう。だがバザンがここで用いる「デクパージュ」とは、時代毎に異なるリアリズムに基づいた、様々なデクパージュである。そうしたデクパージュの、それぞれに「映画の《純粋》さ」をバザンは見出しているのである。ここで再びワイラーの演出に立ち戻りたい。バザンによれば、ワイラーの演出は現実の曖昧さをもたらす画面の深さに基づくデクパージュと、その曖昧さをほとんど否定する演出の「明白さ」によって位置づけられる。実際にこの矛盾に関して考えてみると、『偽りの花園』を除くその他のワイラー作品にも当てはまることが分かる。まずハリウッドのスタジオシステムが作り出す語りの明快さ、ボードウェルの言う古典的ハリウッド映画として、ウィリアム・ワイラーの作品も位置づけることが可能である。またその中にあって、ワイラーは奥行きの演出を使用していた点が多々見られる。トーランドとの共同作品以前にも、『恋のからくり』(The LoveTrap, 1929)、『砂漠の生霊』(Hell’s Heroes, 1929)、『お人好しの仙女』(The Good Fairy, 1935)などで、ディープ・フォーカスではないにせよ、明らかに奥行きの演出を行っている。特に『お人好しの仙女』95