ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

手を切断されるユダヤ人――ビザンティン聖堂装飾「聖母の眠り」図に描かれた反ユダヤ的モティーフについて――摘する十字軍の影響は、マヴリオティッサの個別例としてはおそらく当てはまるものの、「眠り」図のユダヤ人モティーフ全体を説明するには不足が残る。まず、手を切り落とされるユダヤ人イメージは、「眠り」の作例に常に描かれるものではない。筆者の調査では、ユダヤ人図像の附加は中期には例外的と言ってよいほどの頻度であり、後期になると作例が現れ始め、ポスト・ビザンティン期において定型化している。中期のマヴリオティッサの作例解釈では、同聖堂での十字軍の影響は指摘できるが、後期に作例が増えつつある傾向を説明できない。本稿では後期、ポスト期の定型化しつつある、あるいは定型化されたユダヤ人モティーフを考察することにしよう。ビザンティン聖堂装飾の一つの傾向として、後期に入ると説話図像はより説明的になり、細かなモティーフが増加する。特に「聖母の眠り」は本堂西壁、扉口上部という比較的大きな壁面を与えられ、その分さまざまなモティーフを描き加えることが容易であったろう。ただし、一例としてイェフォニアスと同じく副次的なエピソードである雲に乗り飛来する使徒を比較すると、後期において多く描かれるのは雲に乗る使徒である。おそらくユダヤ人イメージの方がより後の時代になって定型化したものと思われる。後期からポスト期にかけユダヤ人モティーフが定型化したと仮定すると、その先鞭を付けた作例として13世紀末から14世紀初頭にかけマケドニア、セルビアの聖堂に壁画を描いたミハイルとエウティキオスの2人組画家のものが挙げられる。一方13世紀には、西欧において反ユダヤ主義の風潮が強まったことが知られている。この二点の相関性を指摘するのが次節以降の課題となる。西欧の反ユダヤ主義―13世紀を中心として―1096年の第一回十字軍は、西欧に突発的な反ユダヤの波を起こした。特にドイツ地域において、シナゴーグの襲撃やユダヤ人の虐殺が行われたことが記録されている(21)。すなわち、聖地とは言えはるか海向こうの異教徒を討つ前に、まず身近にいる異教徒であるユダヤ人をこそ排除すべきであるとの過激な動向が見られたという。しかしこのような動きは11世紀から12世紀にかけてはおおむね散発的、一時的なものであり、教会権力、世俗諸侯ともに反ユダヤ的活動には抑制的にふるまったとされる(22)。しかし13世紀に入り、状況は一変することとなる。1215年、教皇インノケンティウス3世により第4ラテラノ公会議が開催された。本公会議の主眼の一つに異端の排斥が掲げられ、その結果、ユダヤ人に対しての幾つもの差別条項が教令として発布されるに至ったのである。重大なものとしてはユダヤ人であることを示すバッジや帽子着用の強制、金融業からの排除などが挙げられる(23)。この公会議以降、世俗諸侯もユダヤ人の追放などに乗り出し、キリスト教下での本格的な反ユダヤの時代が訪れることとなったのである。ポリアコフらによれば、すでに13世紀当時、ユダヤ人の商業、金融業における地位は低下を見せていたとし、それに反して、悪徳商人、高利貸しのイメージは独り歩きするかのように増大していったと言う(24)。ユダヤ人への差別が強化されたのはこのような背景も影響したと考えられる。追放の他にも都市内での強制移住や隔離も始まり、ユダヤ人は西ヨーロッパ各地で孤立を深めていくこととなったとされる。また1347年に始まるヨーロッパのペスト大流行の際、ユダヤ人の陰謀説が唱えられ迫害されたのはよく知られるところであろう。十字軍に始まり、ラテラノ公会議によって公式のものとなった西欧の反ユダヤ主義は、それまでキリスト教徒の意識の底にあった反ユダヤの感情を露わにし、以降20世紀に至るまでその流れを維持し続けることとなった。ここでビザンティン帝国に目を転じると、帝国内でユダヤ人がどのような立場にあったのかを述べた先行研究は数少なく、状況は推測せざるを得ない。まず、ビザンティン圏内においても、根底にある反ユダヤの感情を否定することはできないと思われる。主イエス・キリストを十字架上で死に至らしめ、マタイ福音書においては「(キリストの)血の責任は、我々と子孫にある」(25)とまで言わせたユダヤ人は、いわばキリスト教徒全体の「敵」であったといえるからである。しかしながら、反ユダヤ主義についての先行研究はいずれもビザンティン圏内に殆ど触れておらず、これは消極的ながらあまり大きな反ユダヤの動きがなかったことの傍証と捉えることも可能なのではないか。イスラム教徒らと並んで異教に数え挙げられているのは事実ではあるが(26)、ドイツで見られたような虐殺の147