ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL4 4 4 4 4 4 4を、「人間精神から産出されたもの4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4、すなわち、認4識されたものを認識すること」(das Erkennen desvom menschlichen Geist Producirten, d.h. desErkannten) (13)として捉えている。筆者は西洋古典学の門外漢なので、ベークの書物を翻訳するにはかなりの困難が伴ったが、しかしこの作業を通じて、人文学とはいかなる学問であるかがわかったように思う。ガレンは名著『ルネサンスの教育』のなかで、人文学的意味における「研究するとは、読み註釈すること」であり、「知識習得の過程とは註釈であり、あるいは註釈への註釈である」(14)と語っている。われわれは人文学研究において、先行研究とか研究史を洗い直しつつ、研究対象となっているテクストや、そのテクストから読み取るべき思想を、つねに新たに解釈し直し、おのれの理解へもたらそうと努める。それは「註釈への註釈」を通じて、ベークのいう「認識されたものの認識」(Erkenntnissdes Erkannten) (15)に至ろうとする努力にほかならない。新しい人文学への手がかりそれでは、ベークのこの著作から人文学の営みにとって、どのような示唆が与えられるのであろうか。実は、拙著『人文学概論』は、ベークの「認識されたものの認識」に触発されて構想されたもので、わかる人にはわかるはずであるが、ベーク的精神は随所に見出される。いずれにせよ、ベークの著作との出会いなくしては、この本は書けなかったと断言できる。言い方を変えると、ベークの『文献学的諸学問のエンツィクロペディーと方法論』の序論と第一主要部を訳出した副産物が、その直後に出た『人文学概論』だということである。ところで、この秋に東京大学文学部の教員たちによる『人文知』全3巻が刊行されたが、この労作は筆者の思い描く人文学とはいささか異なっている。かつてヘーゲルは文献学を「知識の寄せ集め」(Aggregat von Kenntnissen)だと揶揄したが、ベークはこの批判に応えて、文献学を一つの学問体系として呈示した(16)。同じように、人文学も一つの秩序と連関をもった知的宇宙でなければならない。もちろん、学問の専門化が極度に進んだ現在では、このような全体知は実際問題としては不可能であろう。しかし人文学がいわゆる人文科学ではなく、studia humanitatisという意味での人文学であろうとするのであれば、専門的知識を寄せ集めただけでは十分ではない。統合的原理として人間性の理念を中心に据え、人間とその文化を総合的な視点のもとに探究するということがなくてはならない。しかし問題は、統合的原理として機能してきたフマニタス=人間形成の理念が、今日厳しい批判に晒されており、容易にこれを掲げることができないことであろう(17)。管見によれば、人文知はスキエンティア(scientia)すなわち科学ではなく、フマニタス=人間形成に照準を合わせた学知―スキエンティアと区別して、これをドクトリーナ(doctrina)と呼ぶこともできよう―に属する。そのことによってはじめて、それを学ぶ者自身が学習過程を通じて精神的陶冶を体験でき、人間形成の一助となり得るのである。換言すれば、現代においてあるべき人文学は、一方で高度に専門化した知識でありつつも、単なるサイエンス(science)であってはならず、何らかの仕方で人間形成に資するラーニング(learning)という側面ももたなければならない(18)。当然のことながら、この問題は大学における教養および教育の問題に行き着く。この点をめぐっては、様々な議論が成り立ちうるが、人文学の問題と教養の問題が不可分であることは、認めなければならないであろう(19)。それでは、新しい人文学の地平を具体的にどの方向に求めるべきか。筆者はその主要な手がかりを、19世紀以来のフィロロギーの伝統と現代の「哲学的人間学」(die philosophische Anthropologie)のなかに求めたい。前者に関しては、ベークの「認識されたものの認識」という定式のなかに、きわめて重要なヒントが含まれており、後者に関しては、プレスナー(Helmuth Plessner, 1892-1985)やゲーレン(Arnold Gehlen, 1904-76)からも多くを学ぶことができるが、とりわけエルンスト・カッシーラー(Ernst Cassirer, 1874-1945)の「シンボルを操るもの」(animal symbolicum)という人間把握から決定的に重要な示唆を得ることができる。というのは、人文学的な学問は、自然的事象を客観的に観察・実験・記録し、普遍的な法則へともたらそうとする自然科学と異なり、おおむね過去の人間が残した遺物、文献、作品、社会的文化的制度などを対象として、他の人間主体が過去におこなった認識・表現活動を、過去の人間の痕跡としての文化250