ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

『和歌一字抄』の注記をめぐって―注記を付す意図―(19)516侍りける大納言長家はるさめにちる花みればかきくらしみぞれし空の心ちこそすれ(千載集・春下・八二)『千載集』に歌題が記されておらず、『和歌一字抄』とは別の撰歌資料に依った可能性が高い。この例を考える限りでは、後人が『和歌一字抄』の出典注記を勅撰集とつきあわせながら出典注記を付したとは考えにくいと思われる。同様のケースは『続詞花集』との一致歌にも見える。同良資仲水にうつる影のながるる物ならば末くむ人も花はみてまし(四二七)この歌は同題で『続詞花集』に入集する。花影写水と云ふ事を前大宰帥資仲水にうつるかげのながるる物ならばすゑくむ人も花はみてまし(続詞花集・春下・五二)この一首では『続詞花集』ではなく『良玉集』の注記が付される。顕昭や季経といった六条家歌人が出典注記を記したならば「続詞花」と注するほうが自然だろう。『千載集』と『続詞花集』の二例を見ただけであるが、先に見たとおり『和歌一字抄』全体における『千載集』との一致歌は二〇首、『続詞花集』では三八首に達する。これらのうち、一首として両集の注記が付されていないのは後人の追加としてはあまりにも不徹底の感が否めない。他出歌は少なくとも「良」「打聞」の出典注記は、後人による他出調査によって付されたのではない可能性が高いと考えられる。五『後拾遺』時代の私撰集出典注記は特定の私撰集に付される一方、『詞花集』以降の勅撰集と『続詞花集』の注記は付されなかった。では、どのような私撰集が出典注記に付されたのであろうか。『良暹打聞』、『上科抄』、『良玉集』を中心に確認したい。清輔の同時代資料として『和歌現在書目録』から該当する記述を抜き出す。良玉集十巻。八條兵衛佐入道顕仲撰之。金葉集撰之比。大治元年十二月廿五日撰之。上科抄。〈上下、上巻古人、下巻近代大江広経撰。〉良暹打聞。『良玉集』は『金葉集』撰の頃、大治元年十二月廿五日に撰ばれた、藤原顕仲撰の私撰集である。近年、真名序の一部と奥書が発見されたが、歌集そのものは散逸している(13)。諸書に記述や入集歌が残り、簗瀬による集成がある(14)。『上科抄』も確認してみたい。著者は大江広経。『勅撰作者部類』には「広経四位伊賀守。遠江守大江公資男。至寛治三年」とある。広経は教長とも交流があったらしく、次の歌が『貧道集』に載る。大江広経河原院にて水上月と言ふことをよませしついでにくもはらふかぜとはなれどつきかげのやどれるみづのなみのさわぎよ(四二四)また『後拾遺集』に一首入集。およそ『後拾遺集』から『金葉集』の時代にかけて活躍した人物である。『作者部類』に「至寛治三年」とあるが、これは近年の研究が示すとおり、必ずしも没年とは考えられない(15)。『上科抄』の成立は寛治三年より繰り上がる可能性がある。清輔も『上科抄』を『袋草紙』に引用している。『良暹打聞』については、俊成の『古来風体抄』に後拾遺以前の私撰集の記述中に書名が見える。又後拾遺より前、勅撰にはあらで私に撰べる集どもあまたあるべし、能因法師は玄々集といひ、良暹法師は打聞と云、また撰者誰となくて麗花集といひ、樹下集などいひてあまたあるを、後拾遺撰ぶ時、能因法師の玄々集をば、などにかありけん除けるを、詞花集には、勅撰にあらねばとて、玄々集の歌を多く入れたればにや。勅撰集の歌が何を採歌源としているのかという問題は歌人にとって強い関心を惹かれるものであった。俊成が『詞花集』に『玄々集』の歌を多く入集