ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL長も務め、とりわけ詩に造詣が深かったことから、古代ギリシアへの憧憬の自身の詩「陰刻」を詩選集『不意の出来事(3)』に載せている。イザドラは自伝に「父に時々会って、彼が詩人であることを知り、理解するようになった。彼の詩の中には、言わば、私の全人生を予言しているようなものもあった。私が父の人生について説明するのは、こうした子供時代の印象が、私の後の人生に大きな影響を与えたからだ(4)」と述べており、このことからイザドラの人生の根幹には父親の思想が大いに関わっていることが推察できた(5)。一方、母ドラは、セントルイスで連邦徴税官を務めていたトーマス・グレイと熱心なカトリック信者のメアリー・ゴーマンとの間に生まれ、裕福な家庭のもとでピアノ等を習い教養を身に付けて育った。ジョゼフとドラの間には長女エリザベス(6)を筆頭に、長男オーガスティン(7)、次男レイモンド(8)、そして4番目の子としてイザドラが授かった。イザドラの生年月日については諸説があり、長兄のオーガスティンは、1947年、高等裁判所判事エドワード・マーフィーの前で、1878年5月27日と証言し、またThe Real Isadoraの著者でイザドラの友人でもあるヴィクトール・セロフ、その他の研究者も同日を生誕日としている(9)。しかし、次兄のレイモンドは終始一貫してイザドラは1877年5月26日生まれと主張してきた。先行研究者のブレア(10)に続いて、筆者は実際にニューヨーク公共図書館所蔵のイザドラの洗礼証明書(11)を閲覧することによりレイモンドの説が正しいと確認することができた。イザドラの幼少時、父ジョセフは自らの所有する銀行を倒産させた容疑で当局から追われ、余儀なく逃亡生活の身となる。母ドラにとってはこれまでの名誉ある一族の誇りが汚されたも同然で、ジョセフと離婚し、裕福な生活を営んでいたサンフランシスコから子供4人を引き連れて、ロサンゼルスに居を移した(12)。しかし、父親不在の家族は貧困生活から脱することができず、度重なる引っ越しを繰り返すことになり、母ドラはピアノを教えたり編み物を売るなどして生計を立てながら4人の子供たちを必死に育てることになった。2.学校生活と子供時代の教育5歳で小学校に入学したイザドラは、当時の学校生活を振り返り、自伝に以下のように記している。私がつらい思いをしたのは学校だけだった。誇り高く傷つきやすい子供にとって、公立学校は監獄と同じくらいに屈辱的なところだった。〔中略〕学校に行くのは時間の無駄だったからだ。私はお金を稼ぐほうがずっと大切だと思っていた。(13)このようにイザドラの小学校での体験(14)は決して良いものではなかったが、この辛い体験が、後に自身の理想とする舞踊学校を創設したいという強い思いの原点になる。10歳頃、学校に行くことをやめたイザドラは、母親の弾くピアノ音楽、読み聞かせる詩などによって教養を身につけたと次の言葉を残している。わたしにとっての本当の教育は、夜、母がベートーヴェンやシューマン、シューベルト、モーツァルト、ショパンなどの曲を演奏し、シェイクスピア、シェリー、キーツ、バーンズなどの詩を朗読してくれる時間に行われた。こうした時間は魅力にあふれていた。(15)同じ頃、公立図書館でディケンズ、サッカレー、シェイクスピアなどイギリス人作家の数々の本も読破している。このことがイギリスへの憧れを募らせ、後にロンドン行きを決意する要因の一つとなったと思われる。その他、自ら小説や新聞記事を執筆し、日記もつけていることから(16)、彼女が一舞踊家に留まることなく、The Art of the Dance等で書き著した舞踊哲学、公演の後の講話や自伝を記述する基盤がこの頃既に形成されたものと考えられる。3.舞踊への関心と舞踊教育イザドラの舞踊への関心はどのように育まれていったのであろうか。イザドラは次のような言葉を残している。私が初めて動きやダンスについてひらめいたのは、波のリズムからだった。〔中略〕学校という牢獄から逃れることができれば、私は全く自由だった。海辺を一人で歩き回り、さまざまな想像に胸をふくらませた。〔中略〕私が創りだしたダンスの着想76