『澁澤龍彦──幻想美術館』から

鈴木 雅雄

 

とにかく驚くべき一貫性だ。しかもそれが企画者の演出ではなく、澁澤龍彦自身の内的必然性に基づくものと納得させられてしまうような迫力がある。彼が偏愛した画家たちの300点以上の作品は、時間的にも空間的にもかけ離れた場所から取り集められているにもかかわらず、澁澤ファンの期待を裏切るようなものをほとんど含んでいないだろう。だがそのことを保証したうえで、ここではむしろ非常に偏った視点から、会場で考えたことを記してみたい。この文章の書き手のようにシュルレアリスムを研究する人間にとっても、多くの大切な作品に出会える(あるいは再会できる)だけでなく、日本におけるシュルレアリスム美術の受容がどのようなバイアスのかかったものだったかを考えるための貴重な機会を提供してくれる展覧会であるからだ。

 

マニエリスム絵画や江戸時代の美術にまで及ぶ澁澤の関心のなかから、シュルレアリスムと直接間接に関係する部分だけに絞って会場を見渡してみよう。グループの中心にいた画家ではまずエルンストとダリ、そしてタンギー(ブリュッセル・グループまで含めれば、これに加えてマグリット)が目立つ。もう少し遠巻きな関係にあった画家では、ベルメールを別格としてモリニエとデルヴォー、それにスワーンベリが重要な位置を占めている。澁澤がそれぞれの画家に費やした文章の量からして、まったく妥当な選択だろう。とりわけスワーンベリの作品などは、日本で数点をまとめて目にすることの非常に難しいものであり、写真で見るよりむしろ押さえた色彩や、比較的自由に水彩を滲ませた筆致を確認するだけでも、訪れる価値があるだろう。

 

しかし澁澤は、決してシュルレアリスム絵画の全体を愛したわけではない。巌谷國士氏が解説で指摘している通り、ここにはミロやアルプは現れないし、マッソンやマッタといったオートマティスムの系譜も存在しない。澁澤自身「形のはっきりしない」絵画に興味を抱けないと明言していて、なるほどそれはよくわかる。ただもう少し考えると彼の好みは、色彩より形態、あるいはマチエールよりフォルムという選択にも還元できないような気がしてくる。なぜだろうか。

 

曖昧な表現になるが、会場に並べられたタブローを見渡すと、「絵らしい絵」だなという印象がある。一点一点が自立していて、なぜそれが描かれねばならなかったかをタブロー自身が語っている、そんな印象だ。そこにはたしかに描かれる価値のあるもの(たとえば夜の街を放心して歩く裸体の女性たち)が描かれている。文学的な絵画といってしまえばそれだけのことかもしれない。だが問題はおそらく、形のはっきりした絵画がすべて文学的なわけではなく、「絵らしい絵」でもないということだ。

 

何が描かれているかはっきりしていても絵らしくないもの、それをたとえば「図」と呼んでみよう。地図や設計図、あるいは図案化された意匠のようなもの。それらは誰でも簡単に反復できる。しかし「絵らしい絵」はその画家によって、しかも一点しか作り出せない。そしてシュルレアリスムが評価した、しかも「形のはっきりした」造形芸術のなかで澁澤の執着度が相対的に低い部分があるとすれば、それはまさに「図」としての性格を色濃く持った、いわゆるアール・ブリュットや、北アメリカあるいはオセアニアの部族芸術ではないだろうか。

 

もちろんこれは性急な一般化ではある。郵便配達夫シュヴァルの理想宮を澁澤は訪れたし、ヴェルフリやクレパンについても語っている。それでもここに展示された作品を目で追っていくと、それらの多くが誰でも描くことのできる「図」ではなく、メチエを持った画家の仕事であり、しかも澁澤の趣味はそこにあったと思えてくる。シュルレアリスム絵画が日本で認知される過程で、あるいは瀧口修造以上の影響力を持ったかもしれない澁澤の視線が、シュルレアリスムから「図」を捨象するものであったとするなら、逆にそれを再構成することが新しい展望を開くのかもしれない。その意味で、出品作のうちいささか異質なのはスワーンベリとフリードリヒ・ゾンネンシュターンであると思われる。一人は水彩、もう一人は色鉛筆という、さほどのメチエを要求しない手段で描くこの二人は、おそらく誰にでもそれを反復することの可能なパターンを持った「図」の絵画を生産し続けた。もちろん澁澤自身はスワーンベリこそ現存する最愛の画家だと語ったのだから、これらを彼の趣味のなかでマージナルな画家だということはできないが、その絵画論は模倣できない画家の個性に向かおうとするものであった。彼は「図」のなかに、常に「絵」を見ていたのではなかろうか(そして私たちもまた、いまだにそれを見続けている)。

 

澁澤のおかげでシュルレアリスム絵画を見る一つのやり方を私たちは学んだが、そこでえた視線は、シュルレアリスムを現代美術史から切り離し、文学的絵画の位置に押しこめるものであったことも否定はできない(おそらくフランスですら似たような事情はあるのだが)。たとえばマグリットを、あるセンスと才能を持った画家だけが作り出せるオブジェどうしの意外な出会いではなく、図鑑の挿絵を自由に移動させる、いわば他愛もない遊戯として再発見することのうちに、シュルレアリスムの造形芸術を語る新しいディスクールを見出すためのヒントは隠されているかもしれない。澁澤の感性の人間離れした一貫性は、受け入れるにしろ拒絶するにせよ、それに対して一定の態度を取ることでどこかへ赴くことのできる、そんな力を秘めているのだと思う。

(埼玉県立近代美術館、2007年4月7日~5月20日)

 

※会場へのアクセスについては埼玉県立近代美術館のホームページをご覧ください。ディスク・ユニオン北浦和店(ヒップホップ系の中古CDが充実)に行く用事のある人もついでにぜひどうぞ。