モントリオールのコリアン

片山 幹生

 

2013年7月末から8月にかけての3週間、私はケベック州政府が主催するフランス語教授法の研修に参加するため、モントリオールに滞在した。カナダのケベック州の人口は約800万人で、その8割はフランス語話者であり、州の公用語はフランス語である(カナダは州ごとに公用語が定められている)。モントリオールはケベック州最大の都市で、フランス語ではモンレアルと呼ばれる。
研修はモントリオール大学で行われ、日本人6名、韓国人3名、ラオス人2名の給費研修生の他、自費参加のケベック人1名、他の州からやってきた英語話者のカナダ人5名が参加していた。研修生はいずれもフランス語教育に携わる人間だったが、教えている対象は大学だけでなく、高校、小学生など様々だった。

私は韓国映画のファン、とりわけ女優ペ・ドゥナの熱心なファンであり、韓国人指揮者のチョン・ミョンフンを崇拝しているのだけれど、韓国映画やチョン・ミョンフンの音楽を知るはるか前の高校の頃から何となく韓国に興味を持っていて、パリでの留学先でも韓国人と親しくなることが多かった。日本、とりわけネットの世界では、反日や嫌韓がグロテスクに強調されることが多いけれど、私がこれまで知り合った韓国人は、情が厚くて、人なつこい、好奇心旺盛、礼儀正しく、繊細な気遣いがある、はっきり意思表示するといった性質を持っている人が多かった。今回のモントリオール大学の研修で出会った韓国人の先生方も私が持っている韓国人イメージそのままの気持ちのよい人たちばかりで、研修中には数度にわたって一緒に外出し、食事をとった。
今回の研修で親しくつきあった韓国人たちのなかでもとりわけ強い印象を残したのは、韓国系カナダ人のマリーさんだった。彼女は現在はカナダ国籍なので、正確に言えば韓国人ではないのだが。15年ほど前に夫と子供二人でカナダに移住し、オンタリオ州にあるカナダ最大の都市、トロントに住んでいる。上の子供はもう働いていて、下の子供は高校生だとのこと。マリーさんの年齢はおそらく私と同じくらい、40代半ばかあるいはもうちょっと上ぐらいだと思う。研修ではよく発言し、質問する人だった。教室外で最初に彼女と話したのは、モントリオールの花火大会に出かけたときである。研修の授業中にモントリオールの花火大会の話が出て、そのときに彼女はクラス全員に花火大会へ一緒に出かけないかと提案したのだ。この花火大会には結局、日本人5名(私を含む)、韓国人1名、そしてマリーさんで一緒に行った。花火会場に行く前に、夕食を一緒にとったのだが、そのときの雑談で彼女が15年ほど前に家族でカナダに移住した移民一世であることを知った。

「カナダへの移住は、大きな決断だったでしょうね?」と尋ねたとき、
「いいえ。移住を決めたときには、私はそれが大きな決断だとは思っていませんでした」
と彼女はさらりと答えた。夫が移住を決めて、彼女も反対することなくそれに従ったと言う。
自分には予想外だったこの返答に私はなぜか感動を覚えた。
あとになって平田オリザの『その河をこえて、五月』という演劇作品を思い出した。日韓交流事業の記念公演として2002年に新国立劇場で初演されたこの作品は、ソウルの語学学校を舞台としている。韓国人と在日コリアン、日本人留学生とのコミュニケーションが描かれたこの作品では、当時の韓国の若い世代のカナダ移住について言及されていた。マリーさんがカナダに移住したのはちょうどこの作品が初演された時期と重なっている。

《専用》エレベーター

川瀬 武夫

「それを聞いて、なんという見事な問題解決法だろうとおれは思ったね」と、Kが感に堪えたような顔つきをした。Kとはもう10年あまりも前のパリ留学時代の仲間で、今回もたまたまそれぞれの勤務先の大学から1年間の研究休暇をもらって、こうして共に懐かしの都へまいもどってきたというわけである。
なにかにつけ目端のきくKは、パリに着いて数日もしないうちに、お屋敷街の16区に立派なアパルトマンを借り、まだ仮住まいのホテルにくすぶっていた私を呼んでくれた。今世紀初頭に有名な建築家のギマールが設計したという堂々たるアール・ヌーヴォー建築の、日本式にいえば4階にあるそのアパルトマンに私を招き入れると、やおらKがプラスチック製の黒いマッチ箱のようなものを掌に取り出して見せた。「ここに入居するとき、家主が鍵と一緒に渡してくれたものだよ。こいつは一種の発信装置で、これをチカチカやるとエレベーターが作動するという寸法だ」そういえば、さっき上がってくるとき、Kのやつが妙なことをしていたなと思いあたった。「たかがエレベーターひとつに、ご大層な仕掛けじゃないか。外部の人間には勝手に使わせないということか」「いや、眼目はそこじゃないんだ」Kが得たりとばかりに答えた。「家主の説明によると、ここのエレベーターは去年設置されたばかりのものだ。なんでもその費用分担の件で、ずいぶんと揉めたらしい。下の階に住む連中はそんなものはいらないというし、上の方の階にいても、年金暮らしで余分な蓄えのない老齢世帯は話にのらなかったそうだ。それで結局、有志のみが金を出すことになった。そうして彼らにだけこいつが配られたというわけさ」「すると、同じ建物に住んでいながら、エレベーターを使える人間と使えない人間がここでは差別されているというわけかい。これは小金持ちだけの専用エレベーターなのか」あまりの意想外のことにあっけにとられ、つい詰問口調になってしまったようだ。Kがきらりと目を光らせた。「まさか君まで、年寄りがかわいそうだの、弱者切り捨てだの、センチメンタルなお題目を並べるつもりじゃないだろうな。たしかに日本じゃ、決してこうはいかないさ。話がつかないままエレベーターの件はお流れになるか、さもなきゃ有形無形の圧力に負けて、なけなしの貯金を吐き出さされるのがおちだろう。こんな思いきった解決法は、誰も考えすらしないはずだよ。だが、いいかい。こうして金を払った者がはっきりと目に見える形で権利を保証される一方、払いたくなければその自由も当然のように尊重される。なんとも合理的で、明快なやり方じゃないか。おれはいまさらのように、フランスというのは本当に大人の国だと思ったね。それがおれには、この国に生活していて実に気分のいいところなんだ」

Kの意見に一理あることは認めざるをえなかった。曖昧な感情論に流されず、あくまでも理性的に問題解決にあたることこそ、まさに彼のいう〈大人〉の態度というものだろう。うわべは非情に見えることが、ある種の勇気であったりすることも分からぬではない。そして、われわれ日本人にとって、そうした態度をとりつづけるのが、いかに不得手であるかということも。
それでも、と私は思う。非情の産物だか、勇気の結果だか知らないが、とにかくこのエレベーターが作られるまで、ここの住人たちのあいだにもさまざまな心の葛藤があったのではないか。重たそうな買い物袋をさげて、狭い階段をとぼとぼと上がっていく老婆の後ろ姿を、いまでもなにがしかの辛い感情を込めて見送っている住人もきっといるにちがいない”"。

すでに夜も更けたので、私は釈然としないままKのアパルトマンを辞した。エレベーターの前に立とうとすると、Kが「ああ、忘れてた」といって私の肩ごしに例のチカチカをやってくれた。  鈍いうなり声をたてながら、〈専用〉エレベーターが上がってくる。

[付記]このエッセーは筆者の1993年度在外研究期間中にパリで書かれ、同年7月16日の読売新聞衛星版(ヨーロッパで発行)に「合理的過ぎる?解決法」という、あまりといえばあまりのタイトルを付せられて掲載された。今回の再録にあたってタイトルをオリジナルのものに戻した次第である。

龍の名前

鈴木 雅雄

 

5年生に上がるとき、僕ははじめて中村**と同じクラスになった。新しいクラスで、勉強にしろ運動能力にしろ、彼は決して目立つ生徒ではなかったと思う。それでも彼が周囲から特別な存在と見なされるようになったのは、超常現象や魔術に関する厖大な知識のせいであったし、とりわけ新学期に入って間もなく「こっくりさん」が流行したとき、狐か何かの霊に教卓の花瓶の花を散らせるよう命令し、それに成功して以来のことだった。

 

知り合いになってみると、たしかに中村**は常軌を逸した小学生だった。決して裕福な家ではなかったはずだが、彼の部屋のガラス棚には高価なタロット・カードが積まれていたし、なぜか日本の警察機構に関する本などを読んでいて、警察もずいぶん悪いことをしているんだよなどと言っていたものだ。あるときは部屋に透明な小型ピラミッドを置き、その中にミカンの皮を入れて観察していたが、何のためかと尋ねると、ピラミッドの四方を正確に東西南北に合わせると中の食物は腐らないことを証明する実験なのだと言う。別の日にはセミの抜け殻集めに付き合わされたが、袋一杯の抜け殻を集めたあとでこれをどうするのかと聞くと、すりつぶして漢方薬にすると風邪に効くという話だった。

 

だが僕が彼と親しくなったのには特別な事情があった。ある日突然、彼は数人の友人を連れて僕の家に遊びに来ると、今日は大切な話があると言う。少し言いにくいことなのだけれど、実は君を含めた僕たち6人の仲間には、竜神様がとりついた。これから僕たちはなるべく一緒に行動し、他の子供たちにとりついている悪い竜と闘うべきだと思う。君がどうしても嫌ならばその自由はあるけれど、できれば協力してもらいたい。

 

だから僕たちは仲間になった。僕は仲間だけの機密事項として6人兄弟の龍神一人一人の名を教えられたが、僕にとりついているのはその二番目の竜だという話 だった。とはいえ僕たちは、何か明確な行動方針を持っていたわけではない。中村**の竜は末っ子の竜で、特別強い発言権を持っているわけではなかったし、何より彼自身、自分からイニシアティヴをとって行動するということを何か下らないことのように見なしているふうだったからだ。だから僕たちは少なくとも週に一度は行動をともにしたものの、これといった成果を上げることはなかった。やがて中学校に上がると6人が三つの学校に分かれたこともあって、全員が揃うことは難しくなったし、僕と彼も、別の中学校に通いながら会い続けてはいたのだが、竜神の話は次第にしなくなってしまった。

フランスのラジオが好きな理由

久保田 静香

 

フランスに行って私がいちばん興味をもったのはラジオでした。フランス語によるラジオ放送です。より正確には、ラジオのフランス語ニュース放送になります。せっかくフランスに行ってラジオでニュースはないだろうという気が自分でもしますが、なぜかこれは本当のことで、かの地で私は、美術よりも音楽よりも、映画や演劇やオペラよりも、ある意味ではおいしいフランス料理を食べること以上に、ラジオに親しんでいました。そしてそれはこれまたなぜか私にとっては、テレビではなくラジオだったのです。無粋もここに極まれり、といった感がありますが、なぜ私がそれほどまでフランスのラジオに魅かれるようになったのかを、この場を借りてお話できればと考えました。

 

 

私が初めてフランスのラジオを耳にしたのは、アンジェAngersという地方都市の語学学校に通っていたころのことで、思えばもう8年前のことになります。その学校の《フランス語聴解》の初回の授業で、担当の女の先生が開口一番、とりあえずこれを聴いてみましょう、と言って流したのですが、聴いてびっくり、その速さといったら!一聴してわかったことといえばそれがフランス語であることぐらいで、いかなる状況で何についてどのような立場の人が話しているかとなるとまるで見当がつかず、話す言葉のスピードにただ目を丸くし、そのとき偶然席が隣になったハンガリー人の女の子と顔を見合わせながら、「terrible!(おそろしい)」と思わず声をあげたことをよく覚えています。「何これ?」「わかった?」「ぜんぜん」等々、世界各国から集まった外国人学生の驚嘆と畏怖と当惑の声で教室が騒然とする中、「フランス・アンテルFrance Intelというラジオ局が今朝流していたニュースのヘッドラインですよ」、と先生がおもむろに、たったいま聴いたばかりのものと比べたらだいぶわかりやすい(おそらくは外国人向けの)フランス語で話し始めました。「みなさんとても驚いているようですが、フランスではこれが普通なのです。最初はたいへんかもしれませんが、そうですね、まずはミニ・ラジオを買ってください。それを目覚まし代わりに朝から晩まで家の中でも外でも毎日聴いていれば、少しずつ聴き取れるようになりますよ」。

フランス語マンガとわたし

中島 万紀子

 

わたしがフランス語のマンガ(bande dessinée francophone)と出会ったのは、小学生時代にさかのぼる。日本でおそらく一番有名なフランス語マンガ(フランス「の」マンガ bande dessinée française と書かないのは著者のエルジェHergéがベルギー人だからだ)『タンタンの冒険旅行 Les aventures de Tintin』シリーズの翻訳が出はじめていたのだ。

 

日本のマンガとちがって粛々と単調にすすむコマ割りや、1ページの文字数の多さには一瞬ひるんだが、読み出したらたちまちのうちに引きこまれた。読み終わってフトわれに帰ると、この薄さで(だいたい1巻が45~60ページ程度)あれだけの奥行きと広がりをもてるとは……と毎回びっくりしたものである。

 

中学校でも、図書室にシリーズがそろっていたこともあって、同級生の間でタンタンはさりげなく流行っていた。授業中こっそり読んでいるけしからん輩もいたが(わたしではないです、念のため)版が大きいので(A4サイズ)こっそり読むにはなかなかの技術を要したようである。しかしそこまでしても続きが読みたいという気にさせるストーリーテリングの巧みさには、大人になった今でも感心させられる。あとは脇を固めるキャラクターの多彩さとおかしさがあげられよう。タンタン自身は、誤解を恐れずに言えば「主人公」によくある「いい子だがカラッポ(これといった個性もない)」というタイプだが、意外にナマイキな口をきく愛犬ミルー Milou(邦訳ではスノーウィ)、船乗り言葉の悪態をつきまくるアドック(ハドック)Haddock船長、へまばかりの刑事コンビDupontとDupond(邦訳ではデュ「ポ」ンとデュ「ボ」ン)、耳が遠くて話がことごとくとんちんかんになるトゥルヌソルTournesol(邦訳ではビーカー)教授といった人たちのやりとりがたまらなくおかしく、タンタンシリーズの白眉はこれだ!と思わされるほどである。

 

大学に入ってフランス語を学びはじめたわたしは、タンタンの原書を辞書を引き引き読んだりするようになった。そして大学3年で行った夏休みの語学研修で、人生で二つ目となる気に入りのフランス語マンガとの出会いを果たしたのである。フランカン Franquin(彼もまたベルギー人だ)作の『スピルウとファンタジオ Spirou et Fantasio』のシリーズだ。本屋でパラリと見たその絵柄のポップなかわいらしさに、わたしは完全にまいってしまった。ちなみに『スピルウとファンタジオ』シリーズは、ほかのマンガ家の手になるものもあるのだが、わたしはフランカンのものが一番好きで、さらにはフランカンの作品の中にはのちに描かれたもっと有名な『ガストン・ラガッフ Gaston Lagaffe』のシリーズもあるけれども、その頃になるとフランカンの線も熟達のデフォルメがされすぎている気がして、わたしはやっぱり、フランカンでは『スピルウとファンタジオ』が、『スピルウとファンタジオ』ではフランカンのものが一番好きである(のちにちゃんと読んでみたら『ガストン』もかなりおかしかったことを、念のため申し添えておきます。緑のトックリセーターを着ているが腹とヘソがいつも見えていて、ネコとカモメを飼っていてへまばかりしているものぐさな男子の話だ。これだけでもすごいでしょう)。タンタン・シリーズのある種端正なやわらかい線とはひと味ちがう、緩急と躍動感に富んだその頃のフランカンの線を見ていると、ただならぬ高揚感をおぼえたものだ。なぜかいつもベルボーイの赤い衣装を着ているスピルウ(彼も「主人公」らしくちょっとカラッポなキャラクターだが)と、お調子者のファンタジオのコンビぶり、いや、そうそう、忘れてはならないリスのスピップ Spipとのトリオぶりも楽しい。あまりにも気に入ったので、語学研修の終盤のある日、パリのフナック Fnac(本屋)でありったけの単行本を買い、その足で郵便局へ回って日本の自宅宛に発送した。郵便局で狂ったようにマンガを箱詰めしている東洋の謎の女子を見ていぶかしく思ったらしいお爺さんに話しかけられたのもなつかしい思い出だ。気に入ったコマを12選び出してコピーして、自分だけのまさに「オリジナル」な「スピルウとファンタジオ・カレンダー」を作り、部屋に飾ってひとり悦に入ったりしていたことも今急に思い出した。なんともヒマだったことである。

Que reste-t-il de nos amours ?

昼間 賢

 

表題は、往年のシャンソン歌手シャルル・トレネの名曲で、その意味をまずは直訳で捉えていただきたい。「ク~レ~スト~ティル、ドゥノザムール、ク~レ~スト~ティル、ドゥノザムール」と繰り返すトレネの歌い方は、懐古的な歌詞に合わせて寂しそうではあるが、その声色は、むしろ明るい。この歌が生まれたのは1942年、つまりパリは占領下で、だからこの明るさのわけが気になるのだけど、シャンソンに詳しい方にとっては、トレネは何を歌っても明るい、それだけのことかもしれない。「よろこびのうた」だって暗い時代の歌だよ、こっちのほうがずっと輝いてるじゃないか。にもかかわらず、その明るさはどこか装った感じがする。実際には「よろこびのうた」は戦争前の歌で、次第に暗くなってゆく時代を明るく乗り切ろう、という調子の、無頓着というか、強がりというか。かえって虚しくなるような白々しさでさえある。「残されし恋には」の明るさは、それとは違う。いわば、残余の光。たゆたえども沈まなかったものの煌めきだ。

 

僕がフランスのポピュラー音楽に目覚めたきっかけは、1993年、当時早稲田で教えていたパトリック・ルボラール氏の授業中に聞かされたMCソラールのデビュー作だった。曖昧模糊と聞こえていたフランス語の中を、軽快な嵐がさっと吹き抜けるようだった。その衝撃で、そのころ流行っていたネグレス・ヴェルトのカッコよさ(特にセカンドの)がわかるようになった。前者はラップ・フランセの先駆け、後者はミクスチャー・ロックの金字塔である。実は、同じ時期にトレネも聞いているのに、どんな感想を持ったかは全然覚えていない。それから五年後、到着したばかりのパリで、留学中の指導をお願いしていたアントワーヌ・コンパニョン氏の新刊書『理論の悪魔』の序論にこのタイトルが使われていて驚いたことはよく覚えている。授業では「プルースト研究なんてもうやめましょう」などと言い放つ先生で、一時期はずいぶん悩んだ。その言葉を相対化できるようになったのは最近のことだ。

 

とにかく、フランスのポピュラー音楽は僕にとって、最初から混ざりものとしてあった。僕より年上の人たちには思いも寄らない聞き方かもしれない。甘くささやくフレンチ・ポップスは、ほとんど知らない。当時亡くなったばかりで人気絶大だったゲンズブールも、後追いで聞いて感銘は受けたもののリアルな聴取体験にはなっていない。僕にとってのヴァリエテ・フランセーズとは、ネグレスやテット・レッドなどあのころは多かったバンド系と、実はMCソラールもその文脈で聞かれていたアシッド・ジャズ系のグループが中心で、少し後でゼブダが登場したころには、エールやフレデリック・ガリアーノなどエレクトロ系のサウンドも聞くようになった。僕自身が音楽活動に熱中していた(サックス吹いてました)ことも無関係ではなかった。音楽とは第一に鋭利なサウンドであり、歌詞やメッセージなんてほとんど関心がなかった。渡仏後も、伝統的なフランスらしさとは異質な音楽ばかり探し求めた。世紀の境目にあったフランスは、90年代前半に花開いた様々な音楽がそれぞれの最盛期を迎えていて、何を聞いてもおもしろかった。拙著『ローカル・ミュージック 音楽の現地へ』は、個人的にはその集大成のつもりだった。この本は、実は本文を書き終えてから案出したローカル・ミュージックというコンセプトが比較的目新しかったのと、予定より大幅に遅れた刊行が偶然にも2005年秋の郊外暴動と重なったため、好意的な読者には、新しい時代の、それも不穏な新しさを先取りしたものとして受け取られた。それはそれで嬉しかったが、僕自身は、騒動が鎮まるのを見届けた上で、ひとつの時代の終わりが刻まれた本ということになるだろうと感じていた。

タンタンを聴く、着る、旅する

古永 真一

 

中島先生のエッセイでも触れられていましたが、フランス語のマンガについて語る際に『タンタンの冒険旅行』ははずせないでしょう。フランス語のマンガは読んだことはないという人でもタンタンのキャラクターは何処かで目にしているでしょうし、それぐらい世界的に人気のあるマンガだと言えます。最近でもパリのポンピドゥセンターで大規模な回顧展が催されましたし、スピルバーグが映画化するなんて噂もあります。

 

マンガは一度読んでおもしろかったらもうそれでいいのかもしれませんが、その一方でいろいろ調べてみる楽しみというのもあると思います。例えばタンタンはベルギーのマンガですから、ベルギーの文化や歴史を知るきっかけにもなります。タンタンや作者エルジェについて調べてみれば、ベルギーによるアフリカの植民地支配や、第二次大戦のドイツ軍占領下でのベルギーの人々の生活がわかるはずです。

 

日本でもマンガ学が盛んになってきましたが、欧米でもタンタンに関してはすでに多くの研究書が書かれていて、「タンタン学」や「タンタン学者」なんて言葉もあります。例えば、サブキャラにこだわって調べてみると意外なことが見えてきます。タンタンにはビアンカ・カスタフィオーレというオペラ歌手が登場しますが、マンガのなかで彼女がいつも歌っているのは、グノーのオペラ「ファウスト」の宝石の歌。「ファウスト」は日本語字幕つきのDVDも出ていますから、カスタフィオーレ夫人のパフォーマンスと比べてみるとおもしろいですよ。そういえばロッシーニの「泥棒かささぎ」(村上春樹の小説『ねじまき鳥クロニクル』第一部のサブタイトルにもなっていましたね)がオチで使われていた回もありましたし、タンタンとオペラの関わりは意外にあるようです。ちなみに作者エルジェはオペラ嫌いでしたが、タンタンの制作にも協力した親友の漫画家エドガール・P・ジャコブスは元オペラ歌手でした。

ルイ・ド・フュネス──愉快な小さいオジサン

一條 由紀

 

正直言って、ふだん私はそれほど映画を観ません。最後に映画館に行ったのはいつのことだったのか、考えないと思い出せないほどです。DVDなどのレンタルもほとんどしません。とはいえ、テレビで放映される映画を観ることはあります。そして時には、それが大きな発見をもたらすこともあるのです。

 

今をさかのぼること数年前、当時フランスのとある地方都市に留学中だった私は(町にあまり娯楽がなかったため)よくテレビを観ていました。そして、夏休みのある日、映画『ファントマ』に出会ったのです。怪盗ファントマ──それは、第1次世界大戦直前のフランスで大ヒットしたピエール・スヴェストルとマルセル・アランの共著になる連続小説の主人公、ロベール・デスノスをはじめ、詩人・作家たちをもとりこにした犯罪の天才で変装の名人…。すでにそうした漠然とした知識はあったのですが(千葉文夫先生の『ファントマ幻想』のおかげです)こんな映画があったなんて! しかしながら、いつしか見たイラストでは、ファントマは黒い燕尾服にシルクハット、顔の上半分は黒いマスクで隠されており、私はアルセーヌ・リュパン風な怪盗を勝手にイメージしていたのですが…。テレビ画面に映し出されたのは、ビシッと現代風のスーツを着こなした、まさしく怪人=怪しい人でした。なにしろ、頭全体が緑青色のマスクですっぽり覆われており、あたかも顔色の悪い犬神スケキヨのようなのです。しかも、それを演じているのが、コクトー映画でおなじみの名優ジャン・マレーだというのですから(彼は一人二役で、ファントマを追う新聞記者ファンドールをも演じている)私は非常な興味を持って映画を見始めたことです。しかし、私の興味はしだいに怪人からそれていきました。アクションも表情も大仰な小さいオジサンが画面狭しとちょこまか動き回り、ファントマ以上の存在感を醸し出していたのです。それこそがファントマの宿敵ジューヴ警視であり、私とルイ・ド・フュネスとの出会いでした。

Paris, je t’aime について

山崎 敦

 

近所のレンタル・ビデオ店でなにか授業に使えそうなフランス映画はないかと探していたら、新作コーナーに『パリ、ジュテーム』という、そのままの題名の教科書があってもおかしくない、あまりにもベタなタイトルのDVDに目がとまった。フランス語のクラスで「パリ、ジュテーム」とはなんとも気恥ずかしいじゃないかと苦笑しながらケース裏面の紹介文に目を通してみると、かれこれ2年ほど前、旅行で訪れたルーアンの通りがかりの映画館で目にとめたが結局上映時間が合わずに観そびれていた映画であることに気がついた。あの時は、この『パリ、ジュテーム』の代わりに『血と骨』というむごたらしい駄作を観たのだけれど、それはともかくも、当時暮らしていたパリをたった数日離れただけで、旅先で「パリ」と名のつく映画に引き寄せられていたことに今更思いあたり、自分の度し難い「パリ憧憬」ぶりを思い知らされるようで、いっそう気恥ずかしい思いがした。そんな気恥ずかしさをもてあましながら、このパリ全20区のうち18区をそれぞれ舞台にした、18人の監督によるいずれも5分たらずの短編の数々を観てみると、見覚えのある通りや街区がいくつか出てきたことはたしかだが、意外なことにさほど懐かしさが胸にこみあげてこなかった。フランス語の教材探しという下心もあって前半こそ画面に集中していたが、始まっては終わり終わってはまた始まるという、せわしない反復にしだいに疲れてきて、最後の一篇であるアレクサンダー・ペイン監督による14区にたどりついた時には、ようやくこれで終わってくれるのかとほっとした。

 

この最後の14区を舞台にした短編はフランス語教材にうってつけの映画だった。なにしろこの短編の全体にかぶせられているナレーションはフランス語教室において朗読されている作文という設定なのだから。冒頭の何も映っていない暗い画面に、フランス語教師とおぼしき人の「次は誰が読むの?」という声が響き、女性なのか男性なのかどうにもはっきりしない声音で誰かが « Moi »と応え、その作文の朗読が始まる。だんだん画面が明るくなってくると、ある駅前の広場が浮かびだし、次に画面が変わると夜明けのホテルの室内で、その朗読者である女性が広場を見下ろすかたちで窓際に立っている。朗読のフランス語はすぐそれと分かる英語なまりで、画面に映っているのが女性でなければ、男が喋っているのかと思いこみかねないほど低い。そんな声にいかにも似つかわしいずんぐりとした体形のおばさんが目許にすこし悲しげな色をみせて窓際に立っているのだ。色合いがはっきりしないくせに妙に派手でもあるパステルカラーのシャツを着て、足許はスニーカー、そしてコットン・パンツの丈はかなり短くて白い靴下が覗き、ウエストポシェットをぶよぶよとした太鼓腹の下に「まわし」のように締めている─そんなデンバーからやってきた郵便配達のおばさん。パリに来たいがためにフランス語を習いはじめ、2年後にこうして6日間の予定で憧れの地を訪れたものの、最終日になるまで時差ぼけが抜けきらず、美術館をはじめ一通りパリ観光らしきものをしたにはしたが、さっぱり心が浮きたたない。「パリは芸術家の街とか恋の街とか言われているけれど、自分にはまるで無縁なのだ」──通りすがりの「パリジャン」にフランス語で訊ね、そして英語で薦められた中華レストランの、パサパサとした焼飯を馴れない箸でつつきながら、そんなことを思いもする。せっかく勇気をだして « Est-ce que vous savez où est un bon restaurant par ici ? » と訊ねたのに、にっこり微笑みながら« par ici ? »の語尾を精一杯上げてみせたのに、英語で返事を返されたあげく中華レストランを薦められては、観光気分は浮き立ちようもない。でも、街路をあてどなく散策するうちにいつしか異国情緒にうっとりもしてきて、「もし私がここに生まれたら、もし私にお金があったら、ここで暮らしていけるだろう」と、たぶん習い覚えたばかりの条件法を使ってその感動を表現しようとしたら、条件法の活用には失敗、« vivre »の発音には苦しげにどもってしまう。モンパルナス墓地では「ボーヴォワール」の発音に失敗して「ボリヴァー」と言ってしまうし、あたりの雰囲気に染まって亡き母と妹の追憶に耽ってしまい、自分が死んだところで誰も墓参りに来てくれないにちがいないと悲しくなる。それでも、モンパルナス・タワーの展望台からパリを俯瞰しつつ「それでもかまわない」と開き直ってみせるが、こんなすばらしい景色が眼前にひろがっているのに « C’est bon ! »と言える相手がどうして隣にいないのか──そう呟いてまた悲嘆にくれてしまう。そして、11年前に分かれて今では3人の子持ちになっている昔の恋人が隣にいてくれればと埒もない夢想に耽る。

スイス・アパート メント

小出石 敦子

 

まだ六年も経っていないのに、随分昔のことのように思える。いや、いったいあれは本当のことだったのかとさえ思えるときがある。私のスイス留学のことだ。留学といえば、未知の国、未知の人々との出会いであるし、日本では経験できない「何か」が待っているような、不安とそれ以上に期待に胸を高鳴らせる経験であるはずだ。たしかに、初めてスイスに旅立ったときの私は、もっと若かったし、心逸る思いだった。長く付き合える異国の友に出会い、心踊ることがあったのもその時だ。だが二度目となるとそうもいかない。もちろん、博士論文完成のために、読むべき文献の山山と歩むべき長い道のりが、湖の彼方で雄大に聳えるアルプスの山山や、カウベルをならしつつ牛たちが長閑に草を食む草原のイメージよりも、重く心にのしかかっていたからには違いない。スイスに向けて日本を離れるときの私の心境は、「行きたくない」であった。そして日本に戻ってきたときの感想は「やっと終わった」だ。これではさぞ辛い留学生活であったろうと想像されるが、スイスにいた四年と九ヵ月、実は淡々と日々を過ごしていた。今振り返ってみると、その歳月は、苦労して手に入れた学位記の紙片同様、薄っぺらで厚みがなく、いくつかの情景のイメージの断片として記憶されている。これが、正直なところ、四年九ヵ月にわたるスイス留学が私に残したものである。

 

今日はこのイメージの断片のいくつかをお話しする。ある青年と娘についてである。私がスイスで暮らしていたアパートの住人だ。といってもそれは、恋慕の情によって美化される恋人の面影のように心を酔わせるイメージでも、誰もいない暗い夜道で突然車のライトに照らし出されたときのような鮮烈なイメージでもない。それは、何でもない日常のほんの一瞬をそのままファインダーにおさめた写真のようなもので、普段は押入れの奥にあって、たまに大掃除をするために、雑然と詰まれたガラクタどもを掻きわけたとき、あの少し色褪せた状態で見つかる写真である。何でもないイメージだが、たしかにこんなこともあったなという気持ちにさせるイメージなのだ。