スイス・アパート メント
それで一体、わざわざ話をするというのだから、何か事件でも起きたというのか。毎日が、たまに出かける映画か、オペラか、今は亡きベジャール・バレエ以外は、寝るか食べるか机に向かうかでほぼそのすべてが言い尽くされる日常において、少しでも変わったことがあれば、すべてが事件といえば事件であるし、実は何でもないことだといえばそうなる。留学とは、参政権をもたない外国で、目の前で起きるさまざまな事柄を、ただそのようなものとして受け入れながら生きるしかない異邦人の生活であり、同時に、異邦人ゆえに、束縛もなく気ままに生きられる不思議な時間でもある。その何とも定めがたい時間のなかで、たまたま同じ建物で出会った二人のことなのである。
留学生の生活は、わけても、大学の授業に参加するでもなく図書館か自宅にこもって論文を書く留学生のそれは、ごく普通に仕事をしている人間たちの生活時間帯とは大きくずれている。そのためか、アパートの住人たちと顔を合わせることがあまりなかった。それでも何年か経つと、だいたいどんな輩が私と軒を並べているかが分かってくるもので、まず建物にはおおよそ二十世帯が住み、多くは独り者の外国人だ。このアパートは、まったくの四角い白い箱で装飾も一切施されず、ただ中央駅から歩いて十分、レマン湖へも十分で降りられるだけが取柄の場所だ。そして家賃が格段に安い。当時430スイスフランだったから、日本でなら四万円の感覚だろう。室内キッチン・バスタブつきのワンルームは、スイスの友人曰く「人形の部屋」のごとく小さい。で棲みつくのは、お金のない移民、外国人労働者、スイスの低所得者と東洋の貧乏留学生である。
その娘は黒人で、たぶん二十歳ぐらいだったろう。私の隣人であった。娘は母親と二人暮らしで、母親の職業も知らないし、娘も何をしているのかよくわからなかった。一度音楽がうるさかったので、もう少し音量を低くするよう文句を言いに行ったときに玄関に出てきたのがその娘で、それが彼女との初対面であった。その後どのくらいの日数が経っていたのか。ある日の夕方、いつものようにラジオ・トノンRadio Thonon(レマン湖畔にある小さなフランスの町で、ローカル放送局の名前になっている)を聞きながら、鼻歌混じりに夕食の支度をしていると、ブザーが鳴った。開けてみると例の娘が立っている。しかし開けた瞬間妙な気がした。ネグリジェ姿なのである。どうしたのか聞いてみると、音楽が聴きたいので、うるさくなるかもしれないが怒らないでほしいと言った。そして俄かに泣き出してしまった。どうして泣いているのかと尋ねると、嗚咽混じりにこう言った。